ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)さいご5回めの記事。刑務所の教誨師(きょうかいし)に任命されて、また、沖縄仏教界の会長にえらばれて、ビルマのラングーンでおこなわれた世界仏教徒会議に出席。1976年に藍綬褒章(らんじゅほうしょう)をさずかる。
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(あんじょうホームニュース - 2012年12月8日) アメリカ軍制下では、はじめは仏教者も神官とおなじように敬遠されておりました。そのなかで田原惟信は戦前からの実績がみとめられて、1946年6月に刑務所の教誨師(きょうかいし)に任命されました。 こころがすさんだ時代でしたから、困難なしごとでしたが、惟信はこれにうちこみ、沖縄仏教会の会長にえらばれるまでになりました。 1954年、ビルマ(現ミャンマー)政府から沖縄のアメリカ領事館へ、世界仏教徒会議に沖縄代表を派遣するように要請がありました。アメリカ民政府は仏教会の会長である惟信を推薦しました。惟信は単身ラングーンにのりこみ、総会の席上、沖縄行政主席から託されたメッセージをよみあげました。 惟信はこの体験をたいへんほこりにおもい、帰国報告をかいております。これによるとこの会議は、アジア各国から1,000人の僧が参加し、「現代は信ずるこころをうしなっとる。うしなわれた信仰の精神を回復し、世界平和のために団結しよう」とよびかけました。 この会議は1950年、セイロン(スリランカ)のコロンボで第1回会議がもたれ、惟信が出席したのは第3回にあたりました。世界仏教徒連盟の最高議決機関と位置づけられて、仏教徒の友好親善、仏教協議の普及、世界平和への貢献を目的とするものでした。 当時の関係者はこれにとどまらず、仏典(釈迦のおしえ)のみなおしをはかり、あたらしい仏教を世界にしめそうとの意気ごみがありました。そのためこの会議は「チャタ・サンゲヤナ」とよばれました。 この名称はにほんでは「結集(けつじゅう」といい、第1回結集は釈迦の入滅直后、紀元前4世紀にインド・ラージャグリハ(王舎城)でひらかれた経典の編纂会議をいいます。第2回は釈迦の死后100年にバイシャリー(毘舎離国)で、第3回は入滅后200年にパータリプトラ(現パトナ)でひらかれました。 これをうけつぐものとのかんがえがあり、当時沖縄ではこのとしの会議を「チャタ・サンゲヤナ第6回仏教大会」と発表しております。 惟信は帰国報告のなかで、ラングーンでは経典を再検討する500人の僧侶が生活する寄宿舎を建設中であること、経典印刷用の装置がアメリカ合衆国から贈呈されたことをのべております。 惟信の平和運動はそのあともつづきました。1976年には藍綬褒章(らんじゅほうしょう)がさずけられ、2008年8月に永眠しました。 文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕 |
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(さんこう)
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- ぬちどぅたから〔PDF〕
- 田原惟信(1900~2007)
田原惟信師は、敗戦直后、激戦の地の摩文仁にてテント生活をしながら、収骨作業は生存者の責務であるとの立場に立ち、焼け野原で多くの遺骨を収集追弔した。また、ひめゆりの塔、建児の塔、魂魄の塔の建立に携わった。戦后は教誨師として活躍し、更正保護団体づくりを手がけたり、沖縄仏教会々長を務めるなど、戦後沖縄の仏教復興にも尽力した。
沖縄戦で真教寺の堂宇は焼失、その地には倉庫が建てられ、土地が戻ってきたのは、本土復帰の年、1972年であった。再建に着工し1974年4月に起工式が挙行され現在の堂宇となった。 - 「るいるいと横たわるしかばねを乗り越えて、私たちは生を得た。(中略)そのしかばねをいつまでも、風雨にさらすのはしのびない」(『私の戦后史』より)との思いから、戦后間もなく金城和信氏(真和志村長・当時)ら地域住民 とともに収骨をしたのが真教寺の田原惟信前住職でした。亡骸の国籍を問わず集められた遺骨は「魂魄の塔」として祀られ、現在も悲惨な沖縄戦の記憶を伝え続けております。
- 田原惟信(1900~2007)
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