わがふるいは浄土真宗願力寺(がんりきじ)の二男としてうまれた田原惟信(たはらゆいしん)。沖縄は真教寺(しんきょうじ)の3代住職になって、沖縄戦でいのちをうしなったひとたちの遺骨収集をして、ひめゆりの塔をたてて、沖縄仏教会の会長をつとめた。ふるいの偉人だ。2012年あんじょうホームニュースに5回にわたって連載された田原惟信の記事を、これから順番に紹介していく。こんかい1回めは「人生を決定した沖縄戦」。
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(あんじょうホームニュース - 2012年10月13日) 沖縄でかがやいた郷土の先人、田原惟信(1909~2008年)を紹介します。 このひとは沖縄の僧になり、刑務所で受刑者のこころのせわをする教誨師(きょうかいし)として、また、平和をもとめる宗教者として献身的な活動をつみかさね、1976年、「裁判所の民事調停委員および家事調停委員」としての活動がみとめられて藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章しました。沖縄ではじめて遺骨収集、供養に着手し、「ひめゆりの塔」の創設者のひとりにもなった人物であります。 1909年あんじょうちょうおおあざふるいの願力寺にうまれました。岡崎中等学校、真宗専門学校(名古屋の現同朋大学)を卒業すると、真宗大谷派の僧としてなだかい暁烏敏(あけがらすはや)(1877~1954年)のすすめで、沖縄県那覇市西町真教寺にはいりました。 太平洋戦争にまきこまれた惟信は、こどもと坊守(ぼうもり)(住職のつま)を故郷の大分県へ疎開させててらをひとりでまもっておりましたが、1944年10月とおかの爆撃でてらをうしない、知人のてらに避難しました。 そこで惟信がみずからの人生を決定づけるできごとがおこりました。うらやまの防空壕から境内にでてきたときのことです。沖縄タイムス社1983年発刊の『私の戦后史』第7集でつぎのようにかいております。 「わたしのめのまえで、砲弾が破裂した。あかいひのたまが四方にちった。一瞬めがくらみ、みみに衝撃をうけ、おとのない世界につきおとされた。てらのいたかべには無数の破片がつきささっとる。ちかくのきにつないであったうまが、一片の肉と化すすさまじさだった。わたしはむきずだった。奇跡としかいいようがない。いのちびろいをした。というよりわたしは『いかされた』とおもうようになった。だれに、なんのために・・・、自問自答をかさねながら戦火をくぐりぬけ、たどりついた結論が、戦没者の収骨供養と教誨、更生保護事業をライフワークとすることであった」(沖縄タイムス連載から)。 文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕 |
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(さんこう)