ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)2回めの記事。いたるところに散乱する遺骨を収集。沖縄本島南端に「魂魄の塔(こんぱくのとう)」をつくる。
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(あんじょうホームニュース - 2012年10月27日) 1945年4月、アメリカ軍の沖縄本島上陸がはじまると、田原惟信ら島民は戦火におわれて、あるものはきたへ、おなじときにあるものはみなみへむかってにげまどいました。 防空壕の落盤事故にあったり、「摩文仁(まぶに)(※ いまは糸満市の一部)では、かくれとるきびばたけに火炎放射をあびせられ、いのちからがら海岸へおちのびた。食物といえば、はたけのわきにころがっとるめのでたいも、やきこげたきびをかじっとった。体力はなく、気力だけがささえだった。ふろしきにつつみ、せおっとるたった1個の徳用マッチのおもみにたえられず、すてさったのも摩文仁の海岸である」とかれ自身がしるしております。 にげまわったすえの捕虜収容所では、トーチカづくりの重労働を課せられ、解放后転々としたあと、区役所職員として幼稚園につとめました。そのころ金城和信(きんじょうわしん)(のち摩文仁にできる真和志村(まわしそん)(※ いまは那覇市の一部)の村長に就任)にめぐりあって、かたりあううちに意気投合して、遺骨収集事業にとりくむことになったのでした。 収骨活動のはじめごろは、まだ頭髪や皮膚が付着したままの遺骨が散乱しとったといいます。収容された島民には自由はなく、占領軍は死者をとむらい遺骨を収集することさえ禁止しとって、田原惟信は「ゆくてをMP(※ 憲兵)にはばまれまわりみちをしたり、MPにみつかってにげかえったこともある」としるしております。 収容されたむらの村長金城和信がアメリカ軍へかけあって遺骨収集の許可がおりたのは1946年2月下旬でした。村民はさっそく収骨にかかりました。ひろわれた遺骨は米須原(※ 米須(こめす)は糸満市南部にあるあざ)のみなみにうずたかくつまれました。村長はアメリカ軍へ資材の提供をもうしいれ、鉄筋代用に寝台のわく、それにセメントなどを確保しました。それらと周辺から石灰岩をひろいあつめてつみあげ、骨塚をつくりました。この慰霊碑は「魂魄の塔(こんぱくのとう)」となづけられました。「魂」は精神をつかさどるたましい、「魄」は肉体をつかさどるたましいで、あわせて死者のたましいのことです。 「魂魄の塔」には3万5千体が納骨されました。これが最初にきずかれた慰霊塔です。 文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕 |
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(さんこう)
- ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (1) 人生を決定した沖縄戦 - あきひこのいいたいほうだい|2020/09/07
- 魂魄の塔 - Wikipedia
- 魂魄の塔(こんぱくのとう)は、沖縄本島南部の糸満市米須にある慰霊碑・慰霊塔。沖縄戦終結間もない1946年2月、島尻郡真和志村(まわしそん、現在の那覇市の一部)の住民によって建てられた。「周辺に散乱しとった遺骨3万5千余柱」の遺骨を納めたとされ、終戦后の最も早い時期に建てられた慰霊碑でもある。沖縄戦跡国定公園内にある。
- 終戦后の1946年1月、島尻郡真和志村の住民はアメリカ軍の都合から帰村を認められずに摩文仁村(まぶにそん、現在の糸満市)米須に移住を命じられた。テント小屋での仮住まいながらも金城和信(きんじょうわしん)を村長として戦后復興が始まったが、一帯は戦没者の遺骨が「道路、畑の中、周辺いたる所に散乱しとった」状態であり、人々の感情はもとより復興作業の上でもそのまま遺骨を放置することは望ましいことではなかった。
- 非戦平和コース|東本願寺沖縄別院〔PDF〕
- 魂魄の塔
戦后最初にできた慰霊塔で、実質的な沖縄県民の「慰霊塔」といわれる。6月23日「慰霊のひ」にはおおくのひとがおとずれる。真教寺の故田原惟信氏がほの建立に多大な貢献をした。
- 魂魄の塔