あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほどいいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、かんしんしたことなんかをかいていくよ

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (2) 最初の遺骨収集

魂魄の塔(ヰキペディア) 1180-1120

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)2回めの記事。いたるところに散乱する遺骨を収集。沖縄本島南端に「魂魄の塔(こんぱくのとう)」をつくる。

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2.最初の遺骨収集 - 郷土の先人「ひめゆりの塔」創設・田原惟信

(あんじょうホームニュース - 2012年10月27日)

1945年4月、アメリカ軍の沖縄本島上陸がはじまると、田原惟信ら島民は戦火におわれて、あるものはきたへ、おなじときにあるものはみなみへむかってにげまどいました。

防空壕の落盤事故にあったり、「摩文仁(まぶに)(※ いまは糸満市の一部)では、かくれとるきびばたけに火炎放射をあびせられ、いのちからがら海岸へおちのびた。食物といえば、はたけのわきにころがっとるめのでたいも、やきこげたきびをかじっとった。体力はなく、気力だけがささえだった。ふろしきにつつみ、せおっとるたった1個の徳用マッチのおもみにたえられず、すてさったのも摩文仁の海岸である」とかれ自身がしるしております。

にげまわったすえの捕虜収容所では、トーチカづくりの重労働を課せられ、解放后転々としたあと、区役所職員として幼稚園につとめました。そのころ金城和信(きんじょうわしん)(のち摩文仁にできる真和志村(まわしそん)(※ いまは那覇市の一部)の村長に就任)にめぐりあって、かたりあううちに意気投合して、遺骨収集事業にとりくむことになったのでした。

収骨活動のはじめごろは、まだ頭髪や皮膚が付着したままの遺骨が散乱しとったといいます。収容された島民には自由はなく、占領軍は死者をとむらい遺骨を収集することさえ禁止しとって、田原惟信は「ゆくてをMP(※ 憲兵)にはばまれまわりみちをしたり、MPにみつかってにげかえったこともある」としるしております。

収容されたむらの村長金城和信がアメリカ軍へかけあって遺骨収集の許可がおりたのは1946年2月下旬でした。村民はさっそく収骨にかかりました。ひろわれた遺骨は米須原(※ 米須(こめす)は糸満市南部にあるあざ)のみなみにうずたかくつまれました。村長はアメリカ軍へ資材の提供をもうしいれ、鉄筋代用に寝台のわく、それにセメントなどを確保しました。それらと周辺から石灰岩をひろいあつめてつみあげ、骨塚をつくりました。この慰霊碑は「魂魄の塔(こんぱくのとう)」となづけられました。「魂」は精神をつかさどるたましい、「魄」は肉体をつかさどるたましいで、あわせて死者のたましいのことです。

「魂魄の塔」には3万5千体が納骨されました。これが最初にきずかれた慰霊塔です。

あんじょうホームニュース - 田原惟信 (2) 遺骨収集 1100-1580

文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕

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(さんこう)