清沢満之がうまれたのは1863年。まんだ江戸時代だ。なくなったのは1903年。たった40年の人生だっただ。
うまれたばしょは名古屋。尾張藩士徳永家の長男としてうまれとる。碧南西方寺の住職ってしっとっただけど、そもそもは名古屋の武士だっただ。
名古屋時代。8才で黒門町私塾に入学。10才で情妙寺の愛知県第5仮義校に入学。12才で愛知外国語大学に入学。坪内逍遥(つぼうちしょうよう)もおったっていう。神童だったとのこと。
京都時代。16才で東本願寺僧侶となって育英教校に入学。
東京時代。1881年東大予備門に入学。東大文学部哲学科にすすむ。フェノロサの講義をうけてとりわけヘーゲルの講義に感激。主席となる。大学院にすすんで宗教哲学を専攻。東大では特待生だったとのこと。このときはまんだ徳永満之。
1886年7月15日 紙本墨書・簿冊|東京大学文書館提供 満之を特待学生とした大学内での書類。当時の帝国大学では、「学術優等品行方正ナル学生」を特待学生に選び、授業料免除としとった。岡田良平は后に京都帝国大学総長、文部大臣を務め、下山寛一郎は教育者となり、大西祝(はじめ)は哲学を研究し東京専門学校(現・早稲田大学)で教鞭をとった。 |
東大の先輩に井上円了(いのうええんりょう)。東洋大の前身哲学館をつくったひとだけど、つくるにあたって専任教員を自身と徳永満之のふたりとした。
1888年碧南西方寺の長女やすと結婚。ここではじめて清沢満之になるだ。出産で帰省中のやすにあてたてがみがある。ぞんがいやさしいひとだっただ。
清沢やす宛徳永満之書簡1通 徳永満之筆|1889年7月22日付け|紙本朱書・継紙|西方寺蔵 東京滞在中の満之から西方寺に帰省中の妻やすに宛てた書簡。前半では東京の知己を訪ねたこと、后半には身重の妻の心身を気遣う言葉が綴られる。満之と友人たちの交流、妻への優しい眼差しが伝わる書簡である。 |
京都にかえる。1888年26才のとき東本願寺の要請で京都にかえる。京都府尋常中学校の校長になってハイカラ生活をおくる。
禁欲生活。とつぜんハイカラ生活をやめて生活を一変。行者のようなきびしい禁欲生活をおくる。1894年結核にかかって1895年まで垂水で静養。このときに代表作である『宗教哲学骸骨』をかく。
宗門改革運動。1896年から宗門改革運動をはじめる。ミニマムポッシブル、可能なかぎりの最低がいいっていう。阿含経、エピクテタス語録、歎異抄をもって清沢満之の3部経とする。
浩々洞(こうこうどう)をひらく。1899年9月東京近角常観留守宅で私塾浩々洞をひらく。1900年から暁烏敏(あけがらすはや)、佐々木月樵(ささきげっしょう)、多田鼎(ただかなえ)と共同生活。1901年仏教雑誌『精神界』を発刊。1919年までつき1回発刊。
清沢満之(1863-1903) | ||
浩々洞 | 創設メンバー(三羽烏) ・暁烏敏(1877-1954) ・佐々木月樵(1875-1926) ・多田鼎(1875-1937) |
清沢満之に師事 |
興隆期メンバー ・近藤純悟(1875-1967) ・安藤州一(1873-1950) |
||
退潮期メンバー ・曽我量深(1875-1971) ・金子大栄(1881-1976) |
||
東京大学哲学科 | ・井上円了(1858-1919) ・沢柳政太郎(1865-1927) ・近角常観(1870-1941) |
清沢満之と同窓 近角常観が清沢満之に上京を要請 |
教界時言社 (白川党) |
・稲葉昌丸(1865-1944) ・今川覚神(1860-1936) ・月見覚了(1864-1923) ・清川円誠(1863-1947) ・井上豊忠(1863-1923) |
清沢満之の盟友 |
東本願寺為政者 | ・大谷光演(1875-1943) ・石川舜台(1842-1931) |
清沢満之に上京を要請 |
↕ ライバル | ||
・渥美契縁(1840-1906) | 清沢満之と対立 | |
西方寺にかえる。長男信一とつまやすをなくして、1902年西方寺にかえる。1903年6月むいかなくなる。
〔2023年7月27日訪問〕
【流転のしま】
【本証寺布教大会にいってきた】
【田原惟信の功績をたたえるうたをコールアーバーがうたう】
【西方寺の太鼓堂】
【佐々木月樵(ささきげっしょう) - 古井の偉人】