あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほどいいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、かんしんしたことなんかをかいていくよ

佐々木月樵(ささきげっしょう) - 古井の偉人

広報あんじょうの2015年2月15日号にあんじょうの偉人として佐々木月樵(ささきげっしょう)がでとった。

あんじょうの偉人 (6) 佐々木月樵 - 広報あんじょう 2015.2.15号
△ あんじょうの偉人 (6) 佐々木月樵 - 広報あんじょう 2015.2.15号

あんじょうの偉人 (6) 佐々木月樵=仏教学者、教育者
~仏教の近代化に貢献~

  • 明治、大正時代の仏教学者、教育者として有名な佐々木月樵(ささきげっしょう)は、本証寺(ほんしょうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とともに三河三か寺とかぞえられる上宮寺(じょうぐうじ)の僧です。1875年4月13日、古井町の願力寺(がんりきじ)にうまれました。小学校卒業后、宗派の養成学校である岡崎の三河育英教校へすすみ、1893年からは京都の中学へうつりました。ここで師である清沢満之(きよざわまんし)にであいました。清沢満之は哲学者で、のちに碧南の西方寺(さいほうじ)の僧となるひと。まあはい学僧として頭角をあらわしとった佐々木月樵は1898年には上宮寺にむこ養子としてむかえられます。翌年1899年から著作がつぎつぎにうみだされました。后年まとめられた全集をみると、専門的な仏教の論文のほかに、親鸞聖人伝』のような一般むけの名著もあり、学問のはばのひろさがうかがえます。
  • 1900年、東京にうつった清沢満之のもとに有志があつまり、「浩々洞(こうこうどう)」っていう私塾がひらかれます。佐々木月樵はほの中心人物のひとりで、学友である暁烏敏(あけがらすはや)や多田鼎(ただかなえ)とともに、浩々洞の活動をささえ、3人は浩々洞の三羽がらすってよばれました。浩々洞からはほかにも、仏教の近代化にちからをつくす逸材が多数輩出されております。
  • ほのあと佐々木月樵は、大谷大学の前身である真宗大学の教授に就任します。仏教の研究をふかめながら、世界にむけて仏教を紹介することにも関心をよせ、いっぽうで后進をそだてるしくみの確立にも情熱をそそぎました。1921年には文部省の要請でヨーロッパ、アメリカへ「教育宗教事情視察」にでかけます。とくにイギリスの寄宿舎制度にはおおきな関心をよせました。1923年に大学令による私立大学として大谷大学が再出発すると、翌年1924年には佐々木月樵が学長に就任帝国大学とはちがった独特の方針をうちだし、宗派の内外からおおきな信頼がよせられました。
  • ところが就任后の1926年3月11日、入院しとったあんじょうえきまえの病院で佐々木月樵はなくなります。50才、まんだまんだかつやくが期待されるなかでの急逝(きゅうせい)でした。

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なるほど、大谷大学の学長をやるようなえらいひとが、わが古井からでとっただ。いま、2011年3月に古井町歴史研究会がだした「古井の史跡」っていう冊子をみてみると、ちゃんと佐々木月樵のなまえがでとるわ。

史跡 04 願力寺 (古井町歴史研究会) 800-698