ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)3回めの記事。あの有名な「ひめゆりの塔」をつくる。「魂魄の塔(こんぱくのとう)」につづくふたつめの慰霊塔。2本あるいしぶみのうち、短歌のほうのいしぶみは田原惟信が揮毫(きごう)*1。
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(あんじょうホームニュース - 2012年11月10日) 田原惟信(たはらゆいしん)とともに遺骨収集活動の先頭にたった村長金城和信(きんじょうわしん)は、いわゆる「ひめゆり学徒」の壕でふたりのまなむすめ、信子19才と貞子16才をうしなっております。 沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒と職員240人が沖縄陸軍病院南風原(はえばる)分院へ看護要員としてやられたのは、1945年3月にじゅうよっかです。分院といってもよこあなの壕でした。 そこにはいま「重症患者二千余名自決之地」という石碑もあり、重症の兵士などに青酸カリがくばられたとしられる地のひとつでもあります。1945年4月末にはやまのかたちがかわるほどの砲火をあびせられ、5月末には陸軍病院としての機能はうしなわれ、戦局が絶望的になると6月18日に、学徒隊は解散を命じられております。学徒たちは自分の判断で壕からでて砲火をあびてちるひともあれば、壕にとどまって、手榴弾(しゅりゅうだん)をなげこまれていのちつきたひともありました。 惟信らは「女子学生集団自決のはなし」「そのうちいきのこった女学生が病院ではたらいとる」などの情報をてがかりにふたりがすごしたはずの「壕」をみつけました。そこへ最初にふみこんだのは金城村長と文子夫人と真言宗の僧と惟信の4人でした。「なわばしごに、ぶらさがったまま、ふたりの軍人がこときれとる。女学生の死体のやま」としるしております。 ここにつかをつくり石碑をたてたのは1946年4月でした。たかさ1メートルばかりの2本の石碑です。「ひめゆり之塔」の文字は金城の書です。短歌をかいた石碑は惟信の揮毫です。 惟信はえごころのあるひとだったので、バランスのいい文字になっております。短歌の作者はいっしょに活動した仲宗根政善。短歌は「いわまくら かたくもあらなん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」となっております。 いまはひめゆり資料館まえにおおきなよこながの石碑にむかってみぎがわにひっそりたつ2本です。 あんじょうしの古井町歴史研究会の一行は、女性の提案ではなをふたたばおそなえしました。一行のひとりは、ねむっとる女子学生たちが、戦争のない世界をきずこうとするひとびとを応援してくれるよう合掌した、とのことでした。 文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕 |
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(さんこう)
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- ひめゆり平和祈念資料館 - 資料館だより第56号(2015年11月30日)〔PDF〕
- ひめゆりの塔建立
- 1946年4月5日、真和志村民、ひめゆりの塔を建立
ひめゆりの塔の命名、揮毫は金城和信。塔建立に先立ち、金城夫妻は田原惟信(后の真教寺住職)や仲尾次盛忠らと共に、山城の本部壕や伊原の壕、第三外科の壕へ御霊を迎えに行った。米須の真和志村民居住区のテントの一つに「真照寺」が設けられる。 - 1946年4月7日、ひめゆりの塔除幕式と初の慰霊祭を挙行
金城夫妻や真和志村民、近くの同窓生などが集まって、塔の除幕式と慰霊祭を挙行。金城和信が祭文を捧げ、仲宗根政善が「いはまくらかたくもあらむ やすらかに ねむれとぞいのるまなびのともは」の歌を捧げた。 - 1946年4月15日、真和志村民、「いはまくら」の歌碑を建立
揮毫は田原惟信、刻字は山城正顕。
- 1946年4月5日、真和志村民、ひめゆりの塔を建立
- ひめゆりの塔建立
- ひめゆりの塔|ひめゆり学徒隊の慰霊塔
- 非戦平和コース|東本願寺沖縄別院〔PDF〕
*1:「揮」はふるう、「毫」はふでの意味。毛筆で文字やえをかくこと。とくに、知名人がたのまれて書をかくこと。「色紙に揮毫する」(goo国語辞書)