きょうのひるはとんかつのツヅキでぶたからランチ。ごちそうさまでした。
知立の花扇でひるごはん - 2020年9月じゅうよっか
2020年9月じゅうよっか、知立(ちりゅう)のにほん料理花扇(かせん)でひるごはん。花扇は、知立宿の時代からつづく料亭岐阜屋のあじをたのしむことのできるみせ。ばしょは、料亭岐阜屋が東海道にみなみに面してあって、花扇はほのうらがわにあって、きたがわにまわりこんでいくかたちになる。たのんだのはてんぷら御膳で、食后のデザートとコーヒーつき。ふるい料亭のふんいきもあじわいながら、ゆったりとひとときをすごす。
(さんこう)
- 知立宿をいく - 2019年11月13日 - あきひこゆめてつどう|2019/11/25
- 東海道にもどって、また、にしにすすみかけたとこで、みぎに料亭岐阜屋。門と塀があるだけど、ほのたたずまいのしぶいこと。門も塀もかわらやねがついとって、門の部分だけたかくなっとる。門と塀のうえをまつのえだがおおっとる。塀は、こしからしたがくろいいたでおおってあって、うえのほうは、しろぬりの土蔵かべに連続してしかくいあながあいとって、それぞれにくろいかざりいたがはめこんである。門のすぐなかにクルマがなんだいかとまっとって、ほのおくに土蔵風のたてもん。BMW もとまっとる。もどって、くだりざかをおりてきたがわにまわって、日本料理花扇のとこから岐阜屋をみてみると、斜面にふるいたてもんがいっぱいたっとるのがわかる。またまた東海道にもどったとこで、みせから BMW がでていくのをかくにん。
田原惟信の功績をたたえるうたをコールアーバーがうたう
おてらのおくさんらでつくる合唱団があるだげな。ほいで、ことしで結成15周年をむかえるってことで、記念のうたをつくっただげな。ほれが田原惟信(たはらゆいしん)の功績をたたえる『流転のしま』っていううた。田原惟信は、わがふるいは願力寺(がんりきじ)にうまれそだって、沖縄の真教寺(しんきょうじ)3代住職になって、沖縄戦でいのちをうしなったひとたちの遺骨収集をして、ひめゆりの塔をたてて、沖縄仏教会の会長をつとめたひと。うたの作詞は真教寺5代住職の田原大興(たはらたいこう)さんで、作曲は清沢久恵さん。
合唱団のなまえはコールアーバー。うたのおひろめはらいねん2021年6月25日。ききにいきたいな。
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〔中日新聞(鎌田旭昇さん) - 2020年8月4日〕 真宗大谷派岡崎教区(岡崎市梅園町)の合唱団「コールアーバー」が2020年10月、設立15年を迎える。記念曲として、太平洋戦争末期の沖縄戦で命を落とした女子生徒を慰霊する「ひめゆりの塔」(沖縄県糸満市)を建立したことで知られる安城市古井町出身の田原惟信(たはらゆいしん)さん(1909〜2007年)の功績をたたえる歌を作った。団員らは来年2021年6月の披露会に向け、練習を続けとる。 田原さんは戦時中、真宗大谷派の真教寺(那覇市)の住職を務めとった。戦没者の遺骨収集に尽力し、いずれも糸満市にある慰霊塔「魂魄の塔(こんぱくのとう)」や「沖縄師範健児の塔」の建立にも携わったとされる。 合唱団には、三河地方にある寺の住職の妻や、信者ら40〜70代の女性25人が加入しとる。作詞は現在の真教寺住職を務める田原大興(たはらたいこう)さんに頼み、作曲は真宗大谷派で多くの曲を手掛ける作曲家の清沢久恵さん(41)=刈谷市一ツ木町=が担った。昨年2019年9月から取り組み始め、今年2020年4月に完成した。 曲の題名は「流転の島」。田原惟信さんの生涯と沖縄の歴史を重ね合わせた。長さはおよそ7分間。清沢さんは「詩が大事な曲。伝わりやすいように、言葉のイントネーション(抑揚)と音階を合わせた」と話す。
岡崎教務所では2020年8月3日、団員らおよそ20人が集まる練習があった。「透き通った声で歌って」、「母音をしっかり発音して」と、指揮者の女性からげきが飛んだ。フェースシールドやマスクを着けて練習した。 合唱団の野々村真知子団長は「三河出身の田原さんが流転の人生の歩んでいたことを、多くの人に知ってもらえるように歌いたい」と意気込んでいる。披露会は来年2021年6月25日の予定。 |
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(さんこう)
- ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) - あきひこのいいたいほうだい|2020/09/07~2020/09/11
- クリスマスゴスペルコンサート♪ - 2018年12月22日 - あきひこのいいたいほうだい|2018/12/25
- クリスマスはきょうだけど、さきだつ2018年12月22日、あんじょうし歴史博物館でクリスマスゴスペルコンサートをきいてきたよ。
- ホワイトクリスマスからはじまる全18曲。ゴスペルクワイヤーあんじょうのかたたちのやくどうかんあふれるうたいっぷりに、わがこころはおおいにたのしんだよ。
- 本証寺布教大会にいってきた - 2020年9月みっか - あきひこのいいたいほうだい|2020/10/29 〔ついか〕
- 真宗大谷派岡崎教区教務所の杉山寧(すぎやまやすし)師からコールアーバーのはなし。「田原惟信師は願力寺の二男。『流転のしま』の作詞は真教寺5代住職の田原大興(たはらたいこう)師。沖縄の歴史として、北海道からこんぶがきとった。こんぶロードがあって、交易でさかえた。島津氏の沖縄侵攻で20万人以上なくなる。大東亜戦争でアメリカが占領。田原惟信師はちちのようにえかきになりたかったとこを真宗専門学校にいって、暁烏敏(あけがらすはや)にすすめられて、沖縄の真教寺3代住職になった。那覇くうしゅうでてらがやけおちる。摩文仁(まぶに)で、牛島中将自決まで攻撃されつづける。ふんどし1枚のすがたでたすかる。遺骨収集につとめ、魂魄の塔やひめゆりの塔をたてる。いきのこったもんの責務としておこなったこと。教誨保護事業もおこない、沖縄仏教界の会長にもなる。20年以上本堂はなかった。ビルマ仏教大会に参加。99年の生涯をいきる」。
- このあと休憩。杉山寧師からさらにはなしをきく。「田原惟信師のいもうとが知立の万福寺にいった。作曲の清沢久恵さんは、西方寺と関係のある西光寺のひと」とのこと。
ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (5) 世界平和のよびかけ
ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)さいご5回めの記事。刑務所の教誨師(きょうかいし)に任命されて、また、沖縄仏教界の会長にえらばれて、ビルマのラングーンでおこなわれた世界仏教徒会議に出席。1976年に藍綬褒章(らんじゅほうしょう)をさずかる。
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(あんじょうホームニュース - 2012年12月8日) アメリカ軍制下では、はじめは仏教者も神官とおなじように敬遠されておりました。そのなかで田原惟信は戦前からの実績がみとめられて、1946年6月に刑務所の教誨師(きょうかいし)に任命されました。 こころがすさんだ時代でしたから、困難なしごとでしたが、惟信はこれにうちこみ、沖縄仏教会の会長にえらばれるまでになりました。 1954年、ビルマ(現ミャンマー)政府から沖縄のアメリカ領事館へ、世界仏教徒会議に沖縄代表を派遣するように要請がありました。アメリカ民政府は仏教会の会長である惟信を推薦しました。惟信は単身ラングーンにのりこみ、総会の席上、沖縄行政主席から託されたメッセージをよみあげました。 惟信はこの体験をたいへんほこりにおもい、帰国報告をかいております。これによるとこの会議は、アジア各国から1,000人の僧が参加し、「現代は信ずるこころをうしなっとる。うしなわれた信仰の精神を回復し、世界平和のために団結しよう」とよびかけました。 この会議は1950年、セイロン(スリランカ)のコロンボで第1回会議がもたれ、惟信が出席したのは第3回にあたりました。世界仏教徒連盟の最高議決機関と位置づけられて、仏教徒の友好親善、仏教協議の普及、世界平和への貢献を目的とするものでした。 当時の関係者はこれにとどまらず、仏典(釈迦のおしえ)のみなおしをはかり、あたらしい仏教を世界にしめそうとの意気ごみがありました。そのためこの会議は「チャタ・サンゲヤナ」とよばれました。 この名称はにほんでは「結集(けつじゅう」といい、第1回結集は釈迦の入滅直后、紀元前4世紀にインド・ラージャグリハ(王舎城)でひらかれた経典の編纂会議をいいます。第2回は釈迦の死后100年にバイシャリー(毘舎離国)で、第3回は入滅后200年にパータリプトラ(現パトナ)でひらかれました。 これをうけつぐものとのかんがえがあり、当時沖縄ではこのとしの会議を「チャタ・サンゲヤナ第6回仏教大会」と発表しております。 惟信は帰国報告のなかで、ラングーンでは経典を再検討する500人の僧侶が生活する寄宿舎を建設中であること、経典印刷用の装置がアメリカ合衆国から贈呈されたことをのべております。 惟信の平和運動はそのあともつづきました。1976年には藍綬褒章(らんじゅほうしょう)がさずけられ、2008年8月に永眠しました。 文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕 |
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(さんこう)
- ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (4) 平和の梵鐘 - あきひこのいいたいほうだい|2020/09/10
- ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (3) 惟信の揮毫 - あきひこのいいたいほうだい|2020/09/09
- ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (2) 最初の遺骨収集 - あきひこのいいたいほうだい|2020/09/08
- ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (1) 人生を決定した沖縄戦 - あきひこのいいたいほうだい|2020/09/07
- ぬちどぅたから〔PDF〕
- 田原惟信(1900~2007)
田原惟信師は、敗戦直后、激戦の地の摩文仁にてテント生活をしながら、収骨作業は生存者の責務であるとの立場に立ち、焼け野原で多くの遺骨を収集追弔した。また、ひめゆりの塔、建児の塔、魂魄の塔の建立に携わった。戦后は教誨師として活躍し、更正保護団体づくりを手がけたり、沖縄仏教会々長を務めるなど、戦後沖縄の仏教復興にも尽力した。
沖縄戦で真教寺の堂宇は焼失、その地には倉庫が建てられ、土地が戻ってきたのは、本土復帰の年、1972年であった。再建に着工し1974年4月に起工式が挙行され現在の堂宇となった。 - 「るいるいと横たわるしかばねを乗り越えて、私たちは生を得た。(中略)そのしかばねをいつまでも、風雨にさらすのはしのびない」(『私の戦后史』より)との思いから、戦后間もなく金城和信氏(真和志村長・当時)ら地域住民 とともに収骨をしたのが真教寺の田原惟信前住職でした。亡骸の国籍を問わず集められた遺骨は「魂魄の塔」として祀られ、現在も悲惨な沖縄戦の記憶を伝え続けております。
- 田原惟信(1900~2007)
- 1982年4月13日「啄木忌」「沖縄啄木同好会」発足|琉文21〔PDF〕
- ビルマ・インド旅行記|国外膝栗毛|平沼弥太郎〔PDF〕