あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほどいいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、かんしんしたことなんかをかいていくよ

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (4) 平和の梵鐘

万国津梁のかね 250-315

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)4回めの記事。こんかいは田原惟信のてら、真教寺(しんきょうじ)にあった「万国津梁のかね(ばんこくしんりょうのかね)」のはなし。沖縄が世界平和のかけはしとなることをねがうかねで、沖縄サミットの主会場も「万国津梁館」ってよばれることになった。

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4.平和の梵鐘 - 郷土の先人「ひめゆりの塔」創設・田原惟信

(あんじょうホームニュース - 2012年11月24日)

田原惟信のてら、真教寺で、明治、大正のころつかっとった梵鐘に興味ぶかい漢詩がきざまれております。漢詩の概要はおよそつぎのとおりです。

琉球国は南海のすぐれた土地で、「三韓(韓国)」「大明(中国)」「日域(日本)」の中間にある「蓬莱のしま(ほうらいのしま)」である。舟楫(ふなかじ)(ふねの往来)をもってすれば、琉球は「万国の津梁(しんりょう)」となり、めずらしい産物やたからと「仁風(じんぷう)(哲学)」の交流に貢献するであろう。

琉球(沖縄)をたたえる詩です。

「津梁」とは「津」はみなと、「梁」は建築のはりですが、ここでは「かけはし」のことで、沖縄は東アジアの各地をむすぶ「みなととかけはし」の地となるべき、国際的な位置に存在する、とうたっとるのです。おもえば、今日でもおなじことがいえるとおもわれます。

この銘文から「万国津梁のかね」のながうまれ、いま、また、注目されております。

このかねは1458年に明で鋳造され、首里城の正殿まえにあったものですが、同城がにほんの政府にあけわたされてから、経緯があって真教寺にうつされ、首里城が国宝の指定をうける大正年間に、沖縄県にゆずりわたされ、現在は県立博物館に展示されております。首里城では供屋(ともや)に複製がおかれ、かねのねをひびかせることもできます。

名護市の部瀬名岬(ぶせなみさき)ににほんはつのリゾート(保養地)がたの国際会議や見本市の開催できるコンベンション施設が完成すると、ここが「万国津梁館」のなでよばれることになりました。この会場は2000年7月開催の九州・沖縄サミット(第26回主要国首脳会議)の主会場として建設されたもので、一部に県がたてたぜいたくな「はこもの」との批判もありますが、沖縄らしさをふんだんにもりこんで新設されたもので、建設の意図どおりに平和的な国際交流促進にいかされる時代がくれば、沖縄が平和のシンボルのしまになるのでしょう。田原惟信の姿勢につながる問題として注目されます。

あんじょうホームニュース - 田原惟信 (4) 平和の梵鐘 1290-1500

文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕

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(さんこう)

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (3) 惟信の揮毫

ひめゆりの塔 420-420

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)3回めの記事。あの有名な「ひめゆりの塔」をつくる。「魂魄の塔(こんぱくのとう)」につづくふたつめの慰霊塔。2本あるいしぶみのうち、短歌のほうのいしぶみは田原惟信が揮毫(きごう)*1

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3.惟信の揮毫 - 郷土の先人「ひめゆりの塔」創設・田原惟信

(あんじょうホームニュース - 2012年11月10日)

田原惟信(たはらゆいしん)とともに遺骨収集活動の先頭にたった村長金城和信(きんじょうわしん)は、いわゆる「ひめゆり学徒」の壕でふたりのまなむすめ、信子19才と貞子16才をうしなっております。

沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒と職員240人が沖縄陸軍病院南風原はえばる)分院へ看護要員としてやられたのは、1945年3月にじゅうよっかです。分院といってもよこあなの壕でした。

そこにはいま「重症患者二千余名自決之地」という石碑もあり、重症の兵士などに青酸カリがくばられたとしられる地のひとつでもあります。1945年4月末にはやまのかたちがかわるほどの砲火をあびせられ、5月末には陸軍病院としての機能はうしなわれ、戦局が絶望的になると6月18日に、学徒隊は解散を命じられております。学徒たちは自分の判断で壕からでて砲火をあびてちるひともあれば、壕にとどまって、手榴弾(しゅりゅうだん)をなげこまれていのちつきたひともありました。

惟信らは「女子学生集団自決のはなし」「そのうちいきのこった女学生が病院ではたらいとる」などの情報をてがかりにふたりがすごしたはずの「壕」をみつけました。そこへ最初にふみこんだのは金城村長と文子夫人と真言宗の僧と惟信の4人でした。「なわばしごに、ぶらさがったまま、ふたりの軍人がこときれとる。女学生の死体のやま」としるしております。

ここにつかをつくり石碑をたてたのは1946年4月でした。たかさ1メートルばかりの2本の石碑です。ひめゆり之塔」の文字は金城の書です。短歌をかいた石碑は惟信の揮毫です。

惟信はえごころのあるひとだったので、バランスのいい文字になっております。短歌の作者はいっしょに活動した仲宗根政善。短歌は「いわまくら かたくもあらなん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」となっております。

いまはひめゆり資料館まえにおおきなよこながの石碑にむかってみぎがわにひっそりたつ2本です。

あんじょうしの古井町歴史研究会の一行は、女性の提案ではなをふたたばおそなえしました。一行のひとりは、ねむっとる女子学生たちが、戦争のない世界をきずこうとするひとびとを応援してくれるよう合掌した、とのことでした。

あんじょうホームニュース - 田原惟信 (3) 惟信の揮毫 1140-1630

文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕

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(さんこう)

*1:「揮」はふるう、「毫」はふでの意味。毛筆で文字やえをかくこと。とくに、知名人がたのまれて書をかくこと。「色紙に揮毫する」(goo国語辞書)

とんかつのツヅキでかつどん - 2020年10月ようか

2020.10.8 (1) とんかつのツヅキ - かつどん 1200-900

2020年10月ようか、とんかつのツヅキでひるごはん。たのんだのはかつどん。これ、はじめてたのんだだけど、けっこううまかったよ。


(さんこう)

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (2) 最初の遺骨収集

魂魄の塔(ヰキペディア) 1180-1120

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)2回めの記事。いたるところに散乱する遺骨を収集。沖縄本島南端に「魂魄の塔(こんぱくのとう)」をつくる。

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2.最初の遺骨収集 - 郷土の先人「ひめゆりの塔」創設・田原惟信

(あんじょうホームニュース - 2012年10月27日)

1945年4月、アメリカ軍の沖縄本島上陸がはじまると、田原惟信ら島民は戦火におわれて、あるものはきたへ、おなじときにあるものはみなみへむかってにげまどいました。

防空壕の落盤事故にあったり、「摩文仁(まぶに)(※ いまは糸満市の一部)では、かくれとるきびばたけに火炎放射をあびせられ、いのちからがら海岸へおちのびた。食物といえば、はたけのわきにころがっとるめのでたいも、やきこげたきびをかじっとった。体力はなく、気力だけがささえだった。ふろしきにつつみ、せおっとるたった1個の徳用マッチのおもみにたえられず、すてさったのも摩文仁の海岸である」とかれ自身がしるしております。

にげまわったすえの捕虜収容所では、トーチカづくりの重労働を課せられ、解放后転々としたあと、区役所職員として幼稚園につとめました。そのころ金城和信(きんじょうわしん)(のち摩文仁にできる真和志村(まわしそん)(※ いまは那覇市の一部)の村長に就任)にめぐりあって、かたりあううちに意気投合して、遺骨収集事業にとりくむことになったのでした。

収骨活動のはじめごろは、まだ頭髪や皮膚が付着したままの遺骨が散乱しとったといいます。収容された島民には自由はなく、占領軍は死者をとむらい遺骨を収集することさえ禁止しとって、田原惟信は「ゆくてをMP(※ 憲兵)にはばまれまわりみちをしたり、MPにみつかってにげかえったこともある」としるしております。

収容されたむらの村長金城和信がアメリカ軍へかけあって遺骨収集の許可がおりたのは1946年2月下旬でした。村民はさっそく収骨にかかりました。ひろわれた遺骨は米須原(※ 米須(こめす)は糸満市南部にあるあざ)のみなみにうずたかくつまれました。村長はアメリカ軍へ資材の提供をもうしいれ、鉄筋代用に寝台のわく、それにセメントなどを確保しました。それらと周辺から石灰岩をひろいあつめてつみあげ、骨塚をつくりました。この慰霊碑は「魂魄の塔(こんぱくのとう)」となづけられました。「魂」は精神をつかさどるたましい、「魄」は肉体をつかさどるたましいで、あわせて死者のたましいのことです。

「魂魄の塔」には3万5千体が納骨されました。これが最初にきずかれた慰霊塔です。

あんじょうホームニュース - 田原惟信 (2) 遺骨収集 1100-1580

文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕

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(さんこう)

ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (1) 人生を決定した沖縄戦

あんじょうホームニュース - 田原惟信 250-350

わがふるいは浄土真宗願力寺(がんりきじ)の二男としてうまれた田原惟信(たはらゆいしん)。沖縄は真教寺(しんきょうじ)の3代住職になって、沖縄戦でいのちをうしなったひとたちの遺骨収集をして、ひめゆりの塔をたてて、沖縄仏教会の会長をつとめた。ふるいの偉人だ。2012年あんじょうホームニュースに5回にわたって連載された田原惟信の記事を、これから順番に紹介していく。こんかい1回めは「人生を決定した沖縄戦」。

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1.人生を決定した沖縄戦 - 郷土の先人「ひめゆりの塔」創設・田原惟信

(あんじょうホームニュース - 2012年10月13日)

沖縄でかがやいた郷土の先人、田原惟信(1909~2008年)を紹介します。

このひとは沖縄の僧になり、刑務所で受刑者のこころのせわをする教誨師(きょうかいし)として、また、平和をもとめる宗教者として献身的な活動をつみかさね、1976年、「裁判所の民事調停委員および家事調停委員」としての活動がみとめられて藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章しました。沖縄ではじめて遺骨収集、供養に着手し、ひめゆりの塔の創設者のひとりにもなった人物であります。

1909年あんじょうちょうおおあざふるいの願力寺にうまれました。岡崎中等学校、真宗専門学校(名古屋の現同朋大学)を卒業すると、真宗大谷派の僧としてなだかい暁烏敏(あけがらすはや)(1877~1954年)のすすめで、沖縄県那覇市西町真教寺にはいりました。

太平洋戦争にまきこまれた惟信は、こどもと坊守(ぼうもり)(住職のつま)を故郷の大分県疎開させててらをひとりでまもっておりましたが、1944年10月とおかの爆撃でてらをうしない、知人のてらに避難しました。

そこで惟信がみずからの人生を決定づけるできごとがおこりました。うらやまの防空壕から境内にでてきたときのことです。沖縄タイムス社1983年発刊の『私の戦后史』第7集でつぎのようにかいております。

「わたしのめのまえで、砲弾が破裂した。あかいひのたまが四方にちった。一瞬めがくらみ、みみに衝撃をうけ、おとのない世界につきおとされた。てらのいたかべには無数の破片がつきささっとる。ちかくのきにつないであったうまが、一片の肉と化すすさまじさだった。わたしはむきずだった。奇跡としかいいようがない。いのちびろいをした。というよりわたしは『いかされた』とおもうようになった。だれに、なんのために・・・、自問自答をかさねながら戦火をくぐりぬけ、たどりついた結論が、戦没者の収骨供養と教誨、更生保護事業をライフワークとすることであった」(沖縄タイムス連載から)。

あんじょうホームニュース - 田原惟信 (1) 沖縄戦 1070-1560

文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕

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(さんこう)

  • 沖縄の仏教・浄土真宗の歴史|東本願寺沖縄別院
    • 1659年、琉球において真宗が禁制となる。
      (※ この時期までに琉球真宗が伝わっとったかは不明)
    • 1876年、田原法水(たはらほうすい)来琉。備瀬知恒と共に辻遊郭を中心に布教を始める。
    • 1879年、真宗の禁制解かれる。
    • 1882年、那覇説教場新築のため、那覇西村事遺産の箭海岸400坪を埋立てる。
    • 1884年那覇説教場落成。
    • 1889年、那覇説教場が琉球別院となる。
    • 1892年、琉球別院が真教寺となる。開基住職は田原法水。
    • 1932年、真教寺、新本道落成。
    • 1935年、田原惟信、真教寺第3代住職となる。
    • 1944年、「10・10空襲」により真教寺全焼。
    • 1974年、真教寺本堂、再建される。
  • 『私の戦后史』第7集
    • 沖縄タイムス社編▽四六判/330頁▽1983年1月10日刊
    • 自分史の試み - 先達の波瀾に満ちた人生の軌跡を描
      激動の歴史を「人」から照射
      先達が綴る沖縄戦后史
    • 執筆者
      • 田原惟信、仲里全良、知花英夫、新里清太郎、宮城善兵、渡久山寛三、渡嘉敷真球、中村信、中山興真、兼次佐一

幻灯空間

2020.8.30 あんじょうし歴史博物館 - 幻灯空間 (1) 1200-900
2020.8.30 あんじょうし歴史博物館 - 幻灯空間 (6) 1200-900 2020.8.30 あんじょうし歴史博物館 - 幻灯空間 (5) 1200-900

ゆき、もみじ、はながら。季節がつぎつぎかわっていく。

2020.8.30 あんじょうし歴史博物館 - 幻灯空間 (2) 710-1600
2020.8.30 あんじょうし歴史博物館 - 幻灯空間 (3) 670-1590

みあげるようなたかいかべをこいがのぼっていく。

2020.8.30 あんじょうし歴史博物館 - 幻灯空間 (4) 780-1800

きょう2020年8月30日よる、あんじょうし歴史博物館で幻灯空間をたのしんできた。