2019年5月ここのかのわがや。きょうの工事でにわのかどにあった電柱がとれて、じつにみばえがするようになった。
(さんこう)
2019年5月ここのかのわがや。きょうの工事でにわのかどにあった電柱がとれて、じつにみばえがするようになった。
(さんこう)
幡豆(はず)のやまざとのおくに、小野小桜やしき(おののこざくらやしき)ってのがあった。1510年っていうむかし、ゆるされんこいなかにおちいったおっとの三浦安房(みうらやすふさ)ともども京からおちのびて、幡豆は小野ケ谷(おのがや)っていうやまざとの、さらにほのおくのまわりに人家もないとこにたてたやしきだ。やまの斜面のこだちのなかに説明がきのかんばんがたっとって、ほのちょっとうえにやしきあとであることをしめすいしがきがある。
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健康のみち終点 - 起点から4.4km
小桜遺跡について
ここは、小野小桜(おののこざくら)がすんどったっていわれるやしきあとです。
室町幕府14代将軍足利義澄(あしかがよしずみ)につかえとった三浦安房(みうらやすふさ)は、おんなじ女院警護(にょいんけいご)にあたっとった女官(にょかん)小桜とこいなかになり、小桜が懐妊したためふたりは、京をのがれ寺部城の家老大嶽氏をたよって幡豆(はず)にきました。1510年のことです。
ふたりに同情した大嶽氏は、城主小笠原安芸守(あきのかみ)と相談のうえ、将軍家へのきこえをはばかり、ここ小野ケ谷(おのがや)の三ノ沢にいおりをたててすまわせました。
ふたりはたはたをたがやし、3人のおとこのこにもめぐまれしあわせにくらしておりましたけど、ふとしたことから小桜がやまいのとこにつきました。
病気がおもくなったとき、小桜は、おっとの安房をまくらもとによんで、じぶんが小野篁(おののたかむら)の子孫であることをつげ、じぶんの死后は小野家の家名がたえるため、二男に小野の姓をなのらせてくれるようたのんでいきをひきとりました。〔※ 小野篁は平安時代の漢学者として有名〕
小桜のたのみをききいれて、安房は、長男には三浦の姓を、二男には小野の姓をなのらせました。
ほいで、三浦の子孫のかたは西尾市(にしおし)に、小野の子孫のかたは幸田町(こうだちょう)に、こんにちまで家系がつづいております。
なお、ここ小野ケ谷(おのがや)の地名は、小野小桜にちなんでつけられたもんともいわれております。
〔幸田町小野家の家系図より〕
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小野小桜は、百人一首のうたでも有名なあの小野篁(おののたかむら)の子孫で、ここでくらすあいだ、やまざとのこどもたちによみかきをおしえとったっていう。ほいで、なくなったあと、小野の姓は二男にひきつがれて、いまも幸田町(こうたちょう)の菱池(ひしいけ)っていうとこにのこっとるっていう。菱池はしらべるとわかるけど、東海道線幸田駅(こうだえき)と相見駅(あいみえき)のあいだにひろくひろがる区域で、幸田のまちのおおきな部分をしめる。いや~、京のみやこから、幡豆のやまざと、幸田のまちへとつながるこんな歴史があったって、おもしろいな。
(さんこう)
ちょっとものがなしいねいろで、だけど軽快なテンポで勇壮なかんじのする津軽三味線ってすきだな。琉球音楽や阿波おどり、郡上おどりとならんで、にほんの3大音楽のひとつだっておもっとる。ところで、15才にして三味線ひきである豊橋の田中風真さんのことが、きょう2019年5月いつかのちゅうにちにのっとった。2015年に筆者も、あんじょうし歴史博物館に「かぜのみやび」の一員としてきとった、田中風真さんの演奏をきいとる。さらに、きょねん2018年3月22日にはテレビでもとりあげられとったのをみとる。
三味線奏者として順風満帆な経歴をつんできとる田中風真さんだけど、きょうの記事をみると、なやみがあるっていう。「三味線って地味じゃん!」っておもわれとることだ。ほいで、「三味線ってかっこいいじゃん!」ってなるようにがんばるっていう。いや、応援したいね。とりあえず、演奏会ききにいきたいな。
三味線奏者田中風真さん(15才)=豊橋市
「地味」ふきとばすかぜに
今春、第一学院高校豊橋校に入学したばっかりの15才だけど、ひとたび学校をでや、プロの津軽三味線奏者としてかつやくする。ふるき和楽器をてにした青年は「伝統をまもりつつ進化させていきたい」って挑戦のひをともす。
ながくのびる3弦のうえを、ほそいゆびが縦横無尽にはしる。みぎてでばちをたたきつけてうまれるリズムからは疾走感があふれる。田中風真さんは、津軽三味線ユニット「吉田兄弟」のおとうと吉田健一さんが設立したわかて奏者集団「疾風(はやて)」のひとり。最年少の団員だ。
きっかけは5才のころ。ちかくの市民館のまえをあるいとったら、きいたことのないおとがながれてきた。みにいってみると、みしらん楽器が。三味線だった。「おとのおおきさや迫力がかっこよくて」。ギターにあこがれとったこころは、おんなじ弦楽器でもおおきくちがう三味線にすっかりうばわれちゃった。
じもとの津軽三味線の教室にかよって、研さんをつみ、小学校3年生のときに出場した全国大会ではつ優勝。以来、11の全国大会で優勝をかさねた。しだいに大会で披露する民謡ばっかりじゃなくて、プロが演奏する現代風の曲にも魅力をかんじるように。ほいで2年まえ、14才でみずから志願し疾風にむかえいれられた。
しごとを完璧にしあげるぷろのきびしさをかんじつつも、はつ舞台では、団員とかおをあわせて演奏することにかくべつのたのしさをかんじた。「疾風にあこがれてやってきたで。たのしくて、1時間半があっというまだった」ってはなす。
順風満帆な田中風真さんだけど、きがかりなことがある。「同年代は『三味線?なにほれ?』っていういきおい」。三味線をしっとるひとでも、地味な印象をもっとるひとがおおいっていう。
ほこで新時代にめざすつぎの一歩は、三味線を一般的な楽器におしあげることだ。ねらうのはピアノなどほかの楽器との合同演奏や、三味線をくわえた楽団の結成。こうした活動に挑戦していくつもりだ。
ことしにはいって、本格的に作曲もするように。「じぶんも三味線が『かっこいい』っておもうところからはじまった。はじめて三味線をきくひとも『これが三味線?』っておもうような曲をひいて、かっこいいっておもわせたい」
(高橋雪花さん)
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(さんこう)
2019年4月29日、西尾の岩瀬文庫(いわせぶんこ)に御即位慶賀展(ごそくいけいがてん)をみてきた。2019年5月ついたちにあたらしい天皇が即位されることをおいわいしての企画展だけど、学芸員の展示解説つきっていうとこにひかれてもうしこんだもんだ。参加料ひとり500円。
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10時30分からの展示解説にさきだって2階の展示室にはいったとこで、たなにかさねてあった地図のひとつをつくえのうえにひろげてみる。展示品はぜんぶこの岩瀬文庫の蔵書になるだけど、これは1741年につくられた三州八郡地理之図っていう地図で、西尾やわがあんじょうをふくむ三河全域がのっとる。おおきいな。ほいで、あつがみの表紙のしたにおりたたむとこぢんまりとまとまって、とりあつかいやすくなる。
時間がきて、1階の集合ばしょに集合。あつまったのは筆者とつまをふくめて5人。こっから学芸員さんの解説をききながら展示品をみていく。
あらためて2階の展示室への階段をあがっていく。あがりきってすぐ、ひだりのはしらに「名古屋で三河万才」のえがある。三河万才はわがあんじょうのほこる民俗芸能なだけど、往時名古屋まででむいてこんなふうにしていえいえをまわっとったってことがわかる。貴重な資料だ。
770年、にほん最古の印刷物である「陀羅尼経(だらにきょう)」をおさめて、称徳天皇(しょうとくてんのう)が法隆寺など十大寺に奉納した百万塔です。
1908年に法隆寺からゆずりうけました。
【百万塔説明がき】
おくにすすんで、百万塔。なにげないおもちゃみたいなもんだけど、こんなかに印刷されたお経がはいっとるっていうでおどろきだ。しかも770年っていうむかしにだ。ニュージーランドからの見学者は、「1770年のまちがいじゃないか」っていったとのこと。
百万塔のなかにいれるお経も展示されとる。なかにいれるのは4種類あるうちのどれかだけど、いちばんみじかいやつは学芸員さんもみたことがないとのこと。
壁面掲示で印刷、出版の歴史が解説してある。いまみた百万塔のなかのお経は木版印刷によるもんだけど、現存する世界最古級の印刷物だった。ほー。
木版印刷じゃなくて活字による活版印刷も江戸初期におこなわれたけど、活字がきの活字だったためにまもなくすたれたとのこと。たてがき特有のつづけがきにふむきなことも理由だったとのこと。
さらにおくの企画展示室にはいったとこから御即位慶賀展(ごそくいけいがてん)。開催は2019年4月はつかから2019年6月30日まで。
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后奈良天皇宸翰般若心経
后奈良天皇筆/室町時代后期
こんいろのかみに金泥でかかれた般若心経の末尾に「参河国」ってしるされております。
戦国時代、あいつぐ天災や戦乱により凶作や飢饉があり、疫病の流行で民衆がおおいにくるしみました。とくに1540年には「天文の飢饉」がおこり、全国各地でおおくのひとがなくなりました。ほこで、后奈良天皇はみずから般若心経を書写、諸国の神社や寺院へ奉納することを発願。諸国奉納にさきだって、醍醐寺に供養させた般若心経のおくがきに「いま、天下に疫病が流行し、万民が死に瀕しておる。わたしは人民の父母として、徳をいきわたらせることができず、たいへんこころをいためておる。ひそかに般若心経を金字で書写し、供養させる。なんとかこれがやまいの妙薬となることをねがっておる」ってみこころがしるされております。翌年、参河国もふくめた66か国へ奉納しました。
【后奈良天皇宸翰般若心経説明がき】
后奈良天皇宸翰般若心経(ごならてんのうしんかんはんにゃぎょう)。じつにていねいにきれいな文字でかいてある。室町時代后期、疫病にくるしみひとびとをすくわあっておもって、天皇みずからが写経して全国の社寺に奉納しただ。こころをこめてかかれたことがようわかる。
ほれから、学芸員さんの自慢として、あたらしい天皇が皇太子時代の2016年にここ岩瀬文庫を訪問されて、この后奈良天皇宸翰般若心経を熱心にみていかれたっていう説明をうける。きさくでユーモアのあるかただったとも。ちなみに、このとき岩瀬文庫とあわせて、わがあんじょうの水のかんきょう学習館とあんじょうし歴史博物館も訪問されとる。
いま話題の万葉集。
しっかり「令」と「和」のとこにしるしがしてある。万葉集のなかの「梅花(ばいか)のうた32種ならびに序」ってとこだけど、よこに現代語訳もついとる。ところで筆者が「万葉集ってかなでかかれたもんだっておもっとったけど、ぜんぶ漢字じゃないか」っていう質問をしたところ、学芸員さんが「漢字ではあるけど、漢字の意味はつかわんで漢字の音(おん)だけをつかって、にほんごを表記してある」って説明してくれる。なるほど、ようみてみるとほうなっとる。漢文じゃなかっただ。
新元号についての説明がきもある。「ときに初春の令月(れいげつ)にして、気よくかぜやわらぐ(和らぐ)」っていううたのなかから「令」と「和」の2文字をとって、令和っていう新元号にしたとのこと。また、この万葉集自体の説明がきもあって、1596年から1615年の慶長年間ごろの古活字版であるとのこと。
高御座(たかみくら)。この2019年10月のあたらしい天皇の即位式でもつかわれるもんで、筆者も以前に平城宮の大極殿(だいごくでん)で実物をみてきただけど、じつは岩瀬文庫にあるこの書物にえがかれとる高御座をみて、いまのの高御座がつくられたっていう。いや、ほれぐらいに信ぴょう性のたかい書物が岩瀬文庫には収蔵されとるだ。書物のなまえは「御即位調度文安図」で、1444年につくられたもんを1772年にかきうつしたもん。
黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)。天皇陛下ひとりが着用することをゆるされた装束だ。ここを見学したつぎのひ、きのう2019年4月30日、平成の天皇の「退位礼正殿の儀(たいいれいせいでんのぎ)」でも、このなかのいちばんみぎのやつをじっさいにおめしになっとって、おおーっ!っておもったよ。
黄丹染御袍(おうにぜんのごほう)。これは皇太子だけがゆるされる装束だ。ことし2019年10月22日の「即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)」のときにみれるにちがいない。
ひこほほでみのみこと。漢字でかくと彦火々出見尊。これは日本書紀でのいいかたで、古事記では火折尊(ほおりのみこと)っていっとる。初代天皇である神武天皇の祖父にあたるひとだけど、別名の山幸彦(やまさちひこ)としてひろくしられとるひとだ。
このひこほほでみのみことがのっとるのが、室町時代后期のうつしである「かみ代物語(かみよものがたり)」。
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いや~、あっというまの見学だった。学芸員さんの説明のじょうずだったこと。みぶりてぶりも豊富で、じつにわかりやすくたのしかったよ。このひの学芸員さんは課長補佐の林知佐子さん。みなさんにもぜひいってもらいたいな。ほれと、感心するのはこれらの資料がぜんぶインターネットで検索できるようになっとることだ。ふるびた資料が書庫のなかでねむとっとるだけじゃない。ちゃんと活用される状態にある。この岩瀬文庫に1点しかない資料もおおいっていう。閲覧も積極的によびかけとる。現に資料をみにくるひとが全国からあるっていう。いや、海外からもあるっていう。すごいな。
1階におりて、みやげになんまいかのはなのえをもらって、学芸員さんにおれいをいったあと、喫茶室で抹茶とらくがんをいただく。
そとにでて旧書庫をみて岩瀬文庫をあとにする。資材を投じてこの岩瀬文庫をつくった岩瀬弥助、すごい。
(さんこう)
10連休の初日であるきょう2019年4月27日、あんじょうし歴史博物館ととなりのあんじょう市民ギャラリーにいろんな作品をみてきた。
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さいしょは屋外。いし舞台のまえで消防音楽隊の演奏。とってもかぜがつよくて楽譜もふっとびそうななかでの演奏、ごくろうさま。
歴史博物館のたてもんにはいって、消防の歴史展をみる。1955年、パレードのまえ、あんじょうえきまえに集結した消防音楽隊。いや~、むかしの駅舎、なつかしいな~。駅舎をでたとこがすぐえきまえひろばで、ほのままえきまえどおりにつながっとっただ。えきとまちは直結だった。えきとまちをへだてるもんでしかないペデストリアンデッキをとっぱらって、まあいっかいこういうふうにせにゃ。
1955年、南明治(みなみめいじ)ひのみやぐら。南明治ってのはあんじょうえき周辺の市街地のうち、東海道線からみなみの区域をいう。木造のたてもんばっかりだった。1955年は筆者のうまれる2年まえ。ちなみに、北明治(きためいじ)はあんじょうえき周辺の市街地のうち、東海道線からきたの区域をいう。
市民ギャラリーに移動。安祥(あんしょう)フォトサークル写真展をみる。高原列車っていう作品、すてきだ。ちょうど作者の細井哲雄さんがみえて、はなしをきくと、小海線(こうみせん)をはしる列車だとのこと。うしろにゆきをいただいてそびえるのは、みなみアルプスの北岳(きただけ)。
まあひとつ細井哲雄さんの作品で、晩秋のやまざと。名松線(めいしょうせん)をはしる列車。
3階にあがって、モーターバイク展をみる。コーケンバイクエンジンのポスター。ほんな会社があったってこともしらんだけど、あとづけで自転車にエンジンをとりつけてあるかんじか。
ほいから、サンライトバイクモーターのポスター。これもコーケンバイクエンジンのポスターにおなじくだけど、モデルのおねえさんのいでたちはより古風だ。
また1階におりて、七彩会展をみる。加藤孝さんの作品で、はるの裸婦とレクイエム。やっぱりおんなはいい。
さいごに、濃淡の表現展をみる。待田和宏さんの磁器作品で、撓屈(どうくつ)「涯」。したのほうがこくて、うえのほうにいくにしたがってうすくなっていく。なるほど濃淡だ。ところで、撓屈ってどういう意味だ。おんなじ町内にすんでみえるかただで、また、きいてみにゃいかん。
築山素紅さんの絵画作品で、漁師ごや。こやごしに逆光でうみがみえる。
まあひとつ八島正明さんの絵画作品で、園庭。ただ保育園の園庭をかいただけのしろくろの作品だけど、濃淡感がすごい。説明がきをよむと、「くろでおおわれた油彩のキャンバス面をもめんばりでたんねんにけずりえがいていく独特の技法」ってかいてある。ほー。この作品、けっこうきにいった。
(さんこう)