あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

幡豆は小野ケ谷のおくにくらした小野小桜

2019.5.3 (44) はずゆめヲーク - 小野小桜やしき 2000-1500

幡豆(はず)のやまざとのおくに、小野小桜やしき(おののこざくらやしき)ってのがあった。1510年っていうむかし、ゆるされんこいなかにおちいったおっとの三浦安房(みうらやすふさ)ともども京からおちのびて、幡豆は小野ケ谷(おのがや)っていうやまざとの、さらにほのおくのまわりに人家もないとこにたてたやしきだ。やまの斜面のこだちのなかに説明がきのかんばんがたっとって、ほのちょっとうえにやしきあとであることをしめすいしがきがある。

2019.5.3 (44-1) はずゆめヲーク - 小野小桜やしき 2000-1140
健康のみち終点 - 起点から4.4km
小桜遺跡について
ここは、小野小桜(おののこざくら)がすんどったっていわれるやしきあとです。
室町幕府14代将軍足利義澄(あしかがよしずみ)につかえとった三浦安房(みうらやすふさ)は、おんなじ女院警護(にょいんけいご)にあたっとった女官(にょかん)小桜とこいなかになり、小桜が懐妊したためふたりは、京をのがれ寺部城の家老大嶽氏をたよって幡豆(はず)にきました。1510年のことです。
ふたりに同情した大嶽氏は、城主小笠原安芸守(あきのかみ)と相談のうえ、将軍家へのきこえをはばかり、ここ小野ケ谷(おのがや)の三ノ沢にいおりをたててすまわせました。
ふたりはたはたをたがやし、3人のおとこのこにもめぐまれしあわせにくらしておりましたけど、ふとしたことから小桜がやまいのとこにつきました。
病気がおもくなったとき、小桜は、おっとの安房をまくらもとによんで、じぶんが小野篁(おののたかむら)の子孫であることをつげ、じぶんの死后は小野家の家名がたえるため、二男に小野の姓をなのらせてくれるようたのんでいきをひきとりました。〔※ 小野篁平安時代の漢学者として有名〕
小桜のたのみをききいれて、安房は、長男には三浦の姓を、二男には小野の姓をなのらせました。
ほいで、三浦の子孫のかたは西尾市(にしおし)に、小野の子孫のかたは幸田町(こうだちょう)に、こんにちまで家系がつづいております。
なお、ここ小野ケ谷(おのがや)の地名は、小野小桜にちなんでつけられたもんともいわれております。
幸田町小野家の家系図より〕

◇            ◇

小野小桜は、百人一首のうたでも有名なあの小野篁(おののたかむら)の子孫で、ここでくらすあいだ、やまざとのこどもたちによみかきをおしえとったっていう。ほいで、なくなったあと、小野の姓は二男にひきつがれて、いまも幸田町(こうたちょう)の菱池(ひしいけ)っていうとこにのこっとるっていう。菱池はしらべるとわかるけど、東海道線幸田駅(こうだえき)と相見駅あいみえき)のあいだにひろくひろがる区域で、幸田のまちのおおきな部分をしめる。いや~、京のみやこから、幡豆のやまざと、幸田のまちへとつながるこんな歴史があったって、おもしろいな。


(さんこう)

  • 幸田の民話「小野の小桜」菱池|広報こうた - 2009年1月1日号 [PDF]
    • 10年にもおよぶ応仁の乱によって、京の都が一面の焼け野原となってしまったころのことです。
    • 三浦安房(あわ)という、相模(神奈川県)の名門三浦一族の侍と小野の小桜の二人が、三ケ根山のふもと、小野ケ谷(幡豆町)に住むようになりました。安房は、ふもとの田や畑を耕し、小桜は、里の子どもたちに読み書きを教えていました。3人の男の子も、すくすくと育っていました。
    • しかし、ある年のこと、風邪がもとで、小桜が病の床につきました。安房の懸命な看病にもかかわらず、病気は重くなる一方でした。夫をまくら元に呼んだ小桜は、「あなた、ありがとう。私はもう長くは生きられないでしょう。一つだけ気がかりなことがあります。お聞きくださいまし。」「なんなりと申せ。きっとかなえてやろうぞ。」小桜は、夫の安房の手をしっかりにぎりしめながら、「実は、わたしは、あの百人一首の、『わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人にはつげよ あまの釣舟』(釣り船の人よ、私は八十島めざして船出をしたと伝えてくれ)という歌でも知られている、小野の篁(たかむら)の子孫です。私が死ぬと、小野の家の名前が絶えてしまいます。どうか長男には三浦の家の名をつがせ、次男には、小野の家の名をつがせてくださいまし。」まぶたには、一すじの涙が流れていました。「よく分かった。必ずそうしよう。」「ありがとうございます。どうかよろしくお願いします。」かすかな声でそういうと、小桜は静かに息をひきとりました。
    • その后、安房は、あの美しくやさしかった小桜のおもかげをいだきつつ、小桜との思い出のしみつい た小野ケ谷を離れて、幸田の菱池の地に移り住みました。
    • 今も、三浦の家の名は西尾に、小野の家の名は菱池にと、ずっと続 いています。
      (「こうたの民話」の要約)
  • 【百人一首講座】わたのはら やそしまかけてこぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね - 参議篁|京都せんべいおかき専門店【長岡京小倉山荘】|2002年10月15日配信
    • 現代語訳
      広い海を、たくさんの島々を目指して漕ぎ出して行ったよ、と都にいる人々には告げてくれ、漁師の釣り船よ。
    • 作者
      参議篁(さんぎたかむら。802~852)=本名を小野篁(おののたかむら)といいます。834年に遣唐使の副使に選ばれ、836年に唐に向けて出発しましたが難破して帰国。837年の再出発の時に破損した船に乗せられそうになり喧嘩をしたため、当時の嵯峨天皇の怒りにふれ、2年間隠岐に流されました。后に文才を惜しまれ、都に戻され参議にまで出世しています。
  • 幡豆寺部城(愛知県西尾市)のみどころ・アクセスなど、おしろ旅行と歴史観光ガイド|攻城団
    • 幡豆寺部城は徳川家康の船手衆として活躍した幡豆小笠原氏の居城です。1590年の徳川家康の関東移封に従って小笠原氏も上総国に移ったため、廃城となりました。現在城址は公園として整備されており、曲輪、土塁、堀などの遺構がよく残っています。
  • はずゆめヲークにいってきた! - 2019年5月みっか - あきひこゆめてつどう|2019/05/11 〔ついか〕
    • 10連休まっただなかの2019年5月みっか、「はずゆめヲーク」にいってきた。いくつかのコースが設定されとるなかで、こんかいは名鉄蒲郡線(がまごおりせん)の西幡豆駅(にしはずえき)を出発点に、三ケ根山(さんがねさん)にのぼっておりて、東幡豆駅(ひがしはずえき)にもどってくるっていう、きょり13.7キロ、高低差310メートルの、やまあるきのコースだ。西尾市(にしおし)教育委員会生涯学習課の幡豆公民館が主催して、名鉄西尾・蒲郡線活性化協議会が后援する行事になるだけど、じつに51回めの開催になるっていう。
    • 分岐点から50メートル、ふたつめの中継地点、小野小桜(おののこざくら)遺跡にとうちゃく。室町時代は1510年っていうむかしに、京のみやこをおちのびた男女がわびずまいしたとこだっていう。やしきあとのいしがきだけが山腹にのこっとるだけど、小野ケ谷のさとからさらにおくのこんなとこにすんだのか。