「ずっとおこっとった。」
「せいよくを、せいをにくみ、せいにたずさわるにんげんをけいべつするにんげんたちに。」っていう。
『びじゅあるでわかるしゅうきょうきんきとせい』ってほんのさいしょにあった、はなぶさかんのんってひとのぶんしょうだ。いや、むねのすくぶんしょうだ。いかにしょうかいしとく。
◇ ◇
「かみのよくじょう」
はなぶさかんのん
とくべつきこう
ずっとおこっとった。
せいよくを、せいをにくみ、せいにたずさわるにんげんをけいべつするにんげんたちに。
かれらがいちばんみたくないものをみせつけてやろうと、ふくしゅうのようにせいをえがきつづけてきた。
いかりをげんどうりょくにしていきてきた。
それはわたしがせいにくるい、せいをうり、せいにおぼれ、せいによい、せいにからめとられ、いきてきたからだ。せっくすほどきもちがよく、しあわせになれるものは、このよにない。すきなおとことはだをあわせるしゅんかんだけは、もうこのまましんでもいいとおもう。
すきなおとことのせっくすだけじゃない。わかいころには、とにかくいろんなおとことしたくてたまらんときもあった。せっくすのことばかりかんがえて、くるいそうだった。せっくすがしたくてしたくてあたまがおかしくなりそうだった。
あいやこいをこえたせいしょうどうにつきうごかされつづけてきた。
「すきなおとこいがいとしたいとおもうなんて、おかしいよ。おんなはおとことちがって、たくさんのひととできん」なんていわれもして、じぶんはいじょうしゃだとおもったこともある。
そのせいしょうどうのけっか、せいにきずつき、さんざんいたいめにあってはきたが、それでもせいよくはへびのようにわたしをからめとり、ぐいぐいとしめつけはなさず、せっくすにとらわれつづけとる。
ついにはそれをなりわいにして、50をすぎたけれど、せいとせいよくにほんろうされてきたじぶんのじんせいをこうかいなどしとらん。
たとえとしをとり、にくたいがおとろえくちていっても、せいよくやせいはわたしのじくだ。
けれど、そんなにんげんをけいべつし、あざわらい、ときにひなんし、はいしょするひとたちが、しゃかいのなかにたえずおる。せいをなりわいにするおんなに、おぶつをみるようなまなざしをむけ、けいべつのことばをなげかけるものたちが、つねにおる。
しょうせつかとして、でびゅーいらい、せいをえがきつづけてきたわたしも、ずっとそのようなさげすみをうけとった。
おまえはつみをおかしたのだと、ざいにんなのだと、いわれとるようだ。
せいをきんきとし、せいにたずさわるひとたちをけがれたもののようにあつかうれんちゅうに、ことばのいしつぶてをなげられるたびに、ふくしゅうしてやりたいとおもってきた。
おまえらがいちばんにくむものを、みせつけてやるぞ、と。
*
「あめのよくじょう」というえいががある。1932ねんのさくひんで、げんさくはさませっともーむの「あめ」。
えきびょうのりゅうこうのため、ふねのじょうきゃくたちはこのしまで2しゅうかんのあしどめをくらい、しまのしょうにんのいえにまがりすることとなる。
(まんだつづく)