あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほどいいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、かんしんしたことなんかをかいていくよ

三河万才について

2023.7.19 (2) あんじょうの三河万才后援会趣意書 1890-1330 2023.7.19 (1) あんじょうの三河万才后援会趣意書 640-1000

わがあんじょうしに三河万才って芸能があるだけど、ほの后援会趣意書をよんでみた。

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『あんじょうの三河万才』后援会趣意書

年毎に栄えゆくよう寿ぎて
今朝新玉の春を迎えん
誠に芽出度う候ふ
神道三河万才祝文より)

  • わがあんじょうしに伝わる三河万才が、1975年6月16日愛知県無形民俗文化財に指定されたことを機に、さらに郷土の文化財として育てるため、1976年5月9日に恒久的な后援組織をつくり、三河万才保存会に対して力強い声援を送ってまいりました。その甲斐もあり、1995年12月26日には西尾市幸田町とともに国の重要無形民俗文化財に指定されました。
  • 三河万才は、『三河刪補松(みかわさんぽのまつ)』の説によりますと、平安朝の中期に大江定基という人が、三河国国司に任ぜられて、年の始めに「千才楽」「万才楽」の舞をしたのが、そもそもの始めといわれております。
  • 室町末期に至り、応仁の乱で焼き払われた尾張国熱田薬師寺玄海法師が、三河国長谷部郷(現あんじょう市内別所町付近一帯も含まれる)に難をのがれて、長谷部大明神(現岡崎市矢作町西本郷)の神主上地刑部太夫の所に身を寄せ、土地の人に国家安泰、五穀豊穣を祈祷する「礼楽舞」を教えました。これらを万才と称しておりました。
  • その后、文明年間(1469年から1487年)に至り、あんじょう城主松平親忠より長谷部郷に15町四方の土地を賜り、別所村と名付けられました。親忠の末裔松平広忠徳川家康の父)は、この万才師一党を非常に愛し、戦場に連れまわり、矢除けの祈祷をさせておりました。
  • 徳川家康も、これらの万才師を寵愛し一向一揆のときには、各地へ万才巡回をさせて様子をさぐらせまし た。のち家康はその功を賞して、関東17ケ国の勧化巡回を許し、関所通行御免の墨付を与えました。 また家康は天下を統一すると、元来殺伐な気風になりがちな武士の気持ちを和らげるには、この万才の他にはないということで特に名字帯刀を許し、武家風の大紋(だいもん)をつけさせ、諸大名の奥向(おくむき)に参入を許す格式を与えました。そればかりか、毎年元旦には吉祥の祝事として、早朝千代田城開門の式には御門開きの行事を行ない、万才師のあとから諸大名が年賀に参内するのが常となりました。幕府は、万才を寺社奉行の支配とし、1684年には陰陽頭(おんようのかみ)土御門家(つちみかどけ)の直属に移しました。
原文:幕府は、1564年以来、万才を寺社奉行の支配とし、
訂正:幕府は、万才を寺社奉行の支配とし、
(1564年に江戸幕府があったはずがなく削除)
  • 明治に入り廃藩置県以后は、能楽観世清孝門下に組みこまれて、さらに1882年には万才教会が結成され、1886年には神道教会の所属となり、神道奏楽と改められました。
原文:観世清隆
訂正:観世清孝
(かきまちがい)
  • 以来、あんじょうしにおいては、一部の人たちによって継承されておりましたが、近年においては途絶えてしまったものと思われておりました。しかし、1970年にあんじょうし別所町出身で、茨城県下館市(現筑西市)在住の若杉昇平、範義親子が伝承してみえることがわかり、奔走の結果伝授の承諾を得たので、あんじょう市内榎前町に本拠をもつ三河万才保存会(1972年6月あんじょうし無形民俗文化財指定)の人たちが指導を受け、1972年10月若杉流神道三河万才の伝授書と、太夫名「喜利太夫」を授与され今日の保存に至りました。
原文:同1970年
訂正:1972年
(まちがい)
  • ここに有志の皆さまのご協力を得て、后援会を結成いたしておりますので、趣旨にご賛同願い后援会に加入していただきますよう切にお願い申し上げます。

あんじょうの三河万才后援会会長
安城市長)三星元人

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(追記)
2023年7月25日、あんじょうの三河万才后援会にはいった。