あんじょうし歴史博物館に本証寺展をみてきた。ことし2015年3月とおかに本証寺(ほんしょうじ)の境内が、くに指定史跡になったことを記念しての展覧会だ。これを総括する知識がじぶんにあるはずもなく、わがめをひいたものだけをつぎに紹介する。
〔慶円(きょうえん)上人座像〕、〔創建=開基慶円〕、〔法然上人像〕、〔ほりの模型〕、
〔御代替御礼(みだいがえおれい)に関する書状〕、〔発展=蓮如の布教と三河一向一揆〕、
〔本証寺の末寺〕、〔鴛香炉(おしどりこうろ)〕
慶円(きょうえん)上人座像
慶円ってのは本証寺の開祖だけど、なんともいえん表情だね。ほねぶとの骨格、うえにつきでたまんまるあたま、がっちりしたはな、ひろいでこ、こいまゆ、古代エジプト人みたいなふしぎなめ、おおきなて。どれも繊細さはないけど、意思のつよさをかんじさせてくれる。
〔説明がき〕 本証寺をひらいた慶円の木造です。后頭部内部には、造立当初の銘文がしるされており、ほこから1347年に仏師「きょうけい」によりつくられたことがわかっております。この木造のように合掌するすがたは、鎌倉時代におおく、ふるい肖像にみられるとくちょうです。〔南北朝時代 - 愛知県指定文化財〕
創建=開基慶円
本証寺は、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖、親鸞の関東での布教から成立した高田派のてらとして、1200年代の后半にできたものらしい。親鸞のうまれたのが1173年、浄土真宗のもとである浄土宗をひらいた法然(ほうねん)がうまれたのが1133年だで、このふたりがかつやくした時代からほんなにはなれてない。平安時代末期から鎌倉時代にかけての、にほん仏教がわきたっとった時代のことだ。ちなみに、いま浄土真宗髙田派の本拠は三重県の津にあるだげなけど、もともとは栃木県の真岡(もおか)にあった勢力がうつったものだげな。
〔説明がき〕 本証寺は、愛知県あんじょうし野寺町(のでらちょう)に所在する真宗大谷派の寺院です。ほのはじまりは鎌倉時代にまでさかのぼり、慶円(きょうえん)がひらいたとされます。
真宗の開祖親鸞(しんらん)による関東での布教により、下野(しもつけ)のくに高田*1の真仏(しんぶつ)、下総(しもうさ)のくに横曽根*2の性信(しょうしん)ら有力門弟によって初期真宗教団が形成されました。とくに1226年に親鸞が創建したってつたわる高田の専修寺(せんじゅじ)は関東における初期真宗の拠点となりました。三河へはこの高田門徒が真宗をもたらしました。14世紀なかごろにしるされた「親鸞聖人門弟等交名(もんていらのきょうみょう)」には、親鸞-真仏-専海-円善-慶円っていう系譜がしめされております。
慶円のかつやくした時期は、木造の慶円座像の胎内にのこされた1347年の墨書銘や、「親鸞聖人門弟等交名」の成立年代などから、13世紀后半って推測されます。
また、本証寺につたわる法宝物には鎌倉時代末期から室町時代初期に制作されたってみられるものがかずおおくあります。真宗信仰の前提に位置づけられる太子信仰の隆盛をしめす聖徳太子絵伝*3と聖徳太子立像*4、さらには善光寺如来絵伝*5が所蔵されておることから、慶円が太子信仰、善光寺信仰をもちあわせる典型的な初期真宗門侶(もんりょ)であったって推測されます。さらに本証寺境内の土塁から13世紀のかわらが出土しており、本証寺の創建にかかわる資料だって推測されます。
以上のことから、本証寺は13世紀后半ごろには慶円によって開創され、14世紀なかごろには堂舎などもととのえられていったってかんがえられます。
法然上人像
う~ん、これが浄土真宗のもとである浄土宗をひらいた法然(ほうねん)か。木造の質素な慶円をみたあとだけに、なんだかぜいたくをしとるひとのようにみえる。これがえがかれたのが、后年の室町時代であることによるものか。
〔説明がき〕 ななめひだりむきに座し、みぎてをうえにしてりょうてで念珠をもつすがたがえがかれております。真宗寺院の法然像では、曲彔(きょくろく)*6にすわるすがたをえがくものがおおく、本品のようにみじかいねこあしのついた床几(しょうぎ)のようなものにすわる例はかずはおおくありません。また、黒衣にちゃいろの袈裟(けさ)をつけ、袈裟の鉤紐がわとなっとるなど禅宗的な要素もみられます。〔室町時代〕
ほりの模型
本証寺は1500年代后半に家康にはむかい、一向一揆をおこしたことで有名なだけど、境内はおしろさながらに、ほりと土塁でかこわれとった。ほりはふかさ3メートルで、土塁はたかさ3メートル、あわせて6メートルの斜面が敵のまえにたちはだかっとったわけで、こやてごわいや。展示してあったのはほりの模型で、そこにたってみるとほのたかさを実感できる。
御代替御礼(みだいがえおれい)に関する書状
御代替ってのは徳川将軍の代がわりのことで、本証寺にたいしておいわいのあいさつにいくよううながす書状とのこと。将軍家にあいさつできるほど本証寺は権勢をもっとっただね。
〔かくだい〕
〔説明がき〕 1745年に9代将軍についた家重に、謁見しに出府するよう要請する書状です。このときの本証寺住職は16代賢誓でした。〔1746年9月ようか〕
発展=蓮如の布教と三河一向一揆
浄土真宗(じょうどしんしゅう)をひらいたのは親鸞(しんらん)だけど、これを全国的な勢力にまでのばしのは蓮如(れんにょ)のときだっていわれとる。本証寺もこのながれと無縁じゃなくて、さいしょは髙田派だったものが、蓮如が形成した本願寺派にうつっただね。こうして、上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とならんで三河本願寺教団の中心となった本証寺だけど、家康がたが三河本願寺教団の寺領の不入権をおかしたことから、三河一向一揆(みかわいっこういっき)をひきおこすことになるだ。「一向」ってのは浄土真宗のこと。結果は家康に鎮圧されて、はむかったことをゆるされるまでの20年間、不遇をかこつことになる。う~ん。
〔説明がき〕 室町時代のなかごろ、本願寺8代蓮如(れんにょ)は、独自の布教活動をおこない、本願寺を中心としたあらたな教団を形成していきました。この蓮如をささえた主要な地域的基盤が近江や北陸ほんで東海、とりわけ三河でした。
本証寺には蓮如から1468年5月はつかづけで6代光存(こうぞん)に下付された六字名号があることから、本証寺が高田派から本願寺派にうつったのはほれ依然とかんがえられます。蓮如は村落の指導者的たちばにある名主層(みょうしゅそう)を、平易な説法と講の組織化などにより、本願寺教団にとりこんでいきました。こうして創建された道場は、三河本願寺教団の中心となる本証寺、上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)の三河三か寺の末寺・道場になっていきました。
1560年の桶狭間のたたかいで今川義元が戦死すると、今川がたの一武将であった松平元康、のちの徳川家康は、今川がたに反旗をひるがえし、三河の制圧にのりだしました。このような情勢のなか、1563年家康がたが三河本願寺教団の寺領の不入権をおかしたことが発端となり、三河一向一揆が勃発しました。なお、一揆のときには本証寺の周囲をめぐる土塁と二重のほりが存在しとったことがあきらかになっております。家康の家臣であり、本願寺門徒でもあった武士たちのなかには、家康の配下から離脱して一揆がたに加勢し、家康をくるしめたものもおりまいた。しかし最終的に一揆は家康に鎮圧され、三か寺は寺院の存続の条件として本願寺派からの離脱をつきつけられましたけど、ほれを拒否したため、家康領国から追放される結果となりました。これ以降、約20年にわたり三か寺などの大坊主は三河に帰住することができませんでした。
本証寺の末寺
本証寺の末寺を地図におとしたものが展示されとった。西三河南部にびっちりあるよね。ほかに岐阜県、静岡県、東京都なんかにもいくつかある。やっぱり、すごい権勢をもっとっただ。
鴛香炉(おしどりこうろ)
さいごに紹介するのは、これ、おしどりのかたちをした香炉(こうろ)。なんだかほっとする(^_^)
〔説明がき〕 いわばにたつおしどりのすがたをあらわした青銅製香炉。せのはね部分がふたで、あけたくちがけむりだしになっております。〔江戸時代 - あんじょうし指定文化財〕
(さんこう)
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- 本証寺 (安城市) - Wikipedia
- 本証寺のおたから、一堂に - あんじょうのくに史跡|愛知|中部9県|中日新聞プラス|2015/4/19
- 安城市/国史跡指定記念特別展「三河真宗の名刹本証寺」
- 安城市野寺町にある本証寺は、鎌倉時代に創建された浄土真宗の名刹です。三河一向一揆の舞台としてもしられ、当時のほりが良好な状態で残存しとることでひろく注目をあつめております。また、江戸時代には三河の東本願寺派の寺院をとりまとめる中本山(ちゅうほんざん)・触頭(ふれがしら)として繁栄し、現在も江戸時代のすがたをほのままに地域の中心となっております。
- こうした歴史的背景とあんじょうし教育委員会による文化財調査の結果、本証寺境内は、あんじょうしはもとよりわがくににとって歴史的価値が非常にたかいことがあきらかになり、2014年度にくに史跡に指定されました。
- この展覧会では、戦国から江戸時代の境内のようすをしめすほり、土塁やたてもの群などの調査成果とともに、創建期からつたわる聖徳太子絵伝などの法宝物を展示します。
- くに史跡に指定されたこの機会に、本証寺の歴史と文化にふれてみませんか。