山口笑子さんっていうおばあさんのうちに、ご先祖さまのかいた従軍記とてっぽうだまが保管してあった。やねうらべやにあったか土蔵にはいっとったかはわからん。ほのあと寄付をうけて、あんじょうし歴史博物館がもっとっただけど、きょねん一般公開されて、おれもみてきた。なにっていうこともなさそうだけど、じつはこれ太平洋戦争とか日露戦争じゃなくて、幕府軍の天狗党征伐や長州征伐に参加したときの記録なだ。しかもこのご先祖さまはあんじょうむらの百姓。いや、百姓が幕府軍に参加っておかしいじゃんか!っておもうだらあ。徴兵制って、明治になってから西洋にならって導入した制度だってならっとるもんね。うん、幕末もおしつまって薩長のちからがつよまってくると、武士だけじゃまにあわんくなっただね。1862年、っていうと明治維新のわずか6年まえのことだけど、このとしに兵賦令(へいぶれい)ってのがだされて、旗本や御家人は石高におうじて、じぶんの領地から歩兵を幕府にだすことになった。ほんで、当時のあんじょうむらの領主、旗本の久永石見守(ひさながいわみのかみ)には13人がわりあてられて、ほのうちのひとりが山口笑子さんのご先祖さま、山口柳助だったってわけだ。
いくつか展示物を写真にとってきており、以下に紹介する。
◇ ◇
柳助のきふだときんちゃくぶくろ、たまいれぶくろとてっぽうだま
「うすいあいいろのふくろにはいっとったのは柳助(竜助)がもっとった鉄砲だまです。旧式で滑腔式*1のゲベール銃などの鉄砲だまは球形をしております。最新の施条式のミニエー銃などの鉄砲だまは円すい形をしております。旋条式*2の銃は、滑腔式にくらべひきょりや命中率がかくだんにあがったっていわれております」
「きふだには「小」「歩兵組」っていうやきいんとはんたいがわに「久永石見守兵賦竜助(柳助)」と墨書があります。きふだは鑑札やてがたのようなみぶん証明書のようなものっておもわれます。きんちゃくにも「三番柳助」とあります」
柳助の「長州征伐御用中日記」
「「長州征伐御用中日記」は、柳助たち歩兵隊が江戸をしゅったつした1865年*35月いつかからはじまる第2次長州征伐の記録です。柳助たち歩兵隊は、江戸から2か月かけて大坂にとうちゃくし、ここで長州のいごきをまってなんかげつもすごし、ほのあいだたたかいにそなえて訓練をしておりました。じっさい長州へむかったのは翌1866年6月で、幕府軍は広島に本陣をかまえました。柳助たち歩兵隊は蒸気船で周防大島へむかい、ここで戦闘になりました。柳助はひだりてあしにかすりきずをうけたってしるしております。これらの記述は、まちがいやはしりがきが多々みられることから、直近にかかれたっておもわれます」
「『御用日記控』は1863年から1865年の将軍上洛による大坂御用のため、柳助たち歩兵隊が東海道のぼりくだりの宿や水戸天狗党征伐、第2次長州征伐での戦闘の内容と宿の記録をまいにちまとめたものです。さらに十数年后の明治にはいってからの記述もあります。しゅくばごとにひづけと昼食やとまり、ほのひのはたごのなまえがしるされております」
「長州征伐記」
「「長州征伐記」は柳助がうつした3冊からなる后年の記録ものです。1865年、朝廷は禁門の変をおこした長州藩の征伐を命じます。幕府は諸藩に第2次長州征伐を命じ、6月*4に出兵となりました。柳助たちは1865年5月いつかに江戸をしゅっぱつしました。作者は「西丸下第一大隊三番小隊岡田鉱吉述」とあります」
柳助の従軍行程
柳助の従軍行程
1864年水戸天狗党征伐の宿泊地=6月22日に千住をしゅっぱつしてから関ヶ原まで
1865年第2次長州征伐の宿泊地=5月いつかに川崎をしゅっぱつしてから大坂まで
1866年第2次長州征伐の宿泊地など=6月いつかに江〇*5をしゅっぱつしてから品川まで
にほん各地を転戦した歩兵柳助の記録
にほん各地を転戦した歩兵、あんじょうむら柳助の記録
幕末、くろふねの来航よりにほん国内外の情勢は緊迫し、幕府は文久の改革をおこないます。1862年、軍制をあらためて12月みっかに兵賦令(へいぶれい)がだされました。旗本や御家人は石高におうじて、領地から兵賦(歩兵のこと)を幕府にだすことになりました。
あんじょうむらの領主である久永石見守(ひさながいわみのかみ)は5,000石の旗本のため13人がわりあてられました。ほのうちのひとりがあんじょうむらにすむ柳助(竜助)で、あたらしくできた陸軍奉行下の歩兵奉行ひきいるいちばんしたの歩兵組に配属されました。いまの皇居まえひろばのある外苑あたりの西丸下の屯所(とんしょ)にはいりました。ほこで最新の洋式歩兵訓練をうけ、有事のさいに召集されました。
柳助たちの初陣は、1864年3月に水戸藩の尊王攘夷派が挙兵した天狗党の征伐でした。柳助たちは水戸へむかい、天狗党が上洛のため中山道を進軍するのをけん制しながら美濃関ヶ原までむかいました。
1865年、第2次長州征伐がおこなわれ、柳助たちは西丸下歩兵隊として召集され、5月に江戸をでて、翌月に大坂につきました。大坂を拠点に1年間、安芸国などへなんどか往復しております。翌1866年6月に、柳助たちは淡路島の江崎から幕府の蒸気船で周防大島へ上陸し、長州軍とたたかいました。将軍家茂(いえもち)の死去により、8月に長州征伐は停戦となりました。
柳助は、従軍した期間におこなった28か国のしゅくば、ひるめし177宿、宿泊189宿のなまえを記録しております。また、ほかにも長州征伐のときは、おおぜいの出兵のためべんとうなどの確保がなく、おかず、ふとん、ふろの代金をかきしるしたり、たたかいがないときに寺社へ参詣したことなども記録しております。
1867年3月、柳助たちは5年の任期をおえ帰国しました。ほのあと柳助は、あんじょうむらの久永石見守の陣屋につとめ、まもなく明治をむかえました。
「御上洛供奉御用掛御役人附」 - 1863年
「常州水戸浪徒追討記」(全5巻)、きばこ「常州水戸・長防二州浪徒追討記」
「1865年大阪御用・野州御用休泊附」
これらの資料はすべて「常州水戸・長防二州浪徒追討記」と墨書のあるきばこにおさめられておりました。
「常州・水戸浪徒追討記」は西丸下屯所におる兵賦(歩兵)を中心に征伐におもむいた全5冊の記録です。后年に柳助(※ このときは権六となのる)がかいたものですけど、本人があらわしたものか、西丸下屯所関係者の記録をうつしたのか不明です。
「大坂御用・野洲御用休泊附」は1863年から1864年にかけて第14代将軍家茂の上洛時に大坂へむかったときのしゅくば記録です。大阪には歩兵が調練する講武所がありました。ほかにも天狗党征伐や第2次長州征伐のしゅくば記録もあります。
「御上洛供奉井御用掛役人附」は、第14代将軍家茂の上洛時の行列にしたがった老中・若年寄などのなまえがあげられております。御軍艦奉行並に勝麟太郎(勝海舟)のなまえがみえます。
「水府戦争絵図(1864年)」
天狗党が挙兵した水戸城の周辺の地図です。幕府の征伐軍はえず中央の那珂川(なかがわ)のしたに布陣しております。ほのなかで柳助が所属した西丸下ロ所(陣所?)がほぼまんなか(ロ沢(柳沢?)にえがかれております。
「厳島社頭之図」
名所であった安芸国宮島の厳島神社のえずです。宮島は周防大島のきたに位置しており、柳助が第2次長州征伐でおもむいたさいに入手したっておもわれます。
幕末の農民従軍記録発見 - ちゅうにち 2016.4.6
あんじょうし歴史博物館が所蔵する古文書が、幕末に江戸幕府の歩兵隊に従軍したあんじょうむらの農民がかいた日記や回想録だったことがわかった。農民の従軍記録はめずらしく、立正大学の石山秀和准教授(にほん近世史)は「ひじょうに貴重な資料だ」っておどろいとる。(重村敦さん)
古文書は22点。幕府の歩兵隊に撤収された農民の山口柳助(竜助、生没年は不明)が20代だった1862年から5年間、天狗党の征伐や第2次長州征伐などで従軍した体験をかいた日記や回想録のほか、従軍なかまのえずなどもある。
柳助の子孫にあたる山口笑子さん(85)が1994年、あんじょうしの自宅で保管しとった古文書を、柳助がつかったってみられる西洋式銃の弾丸数点やたまいれぶくろなどとともにあんじょうし歴史博物館に寄贈した。
古文書の「長州征伐御用中日記」では、幕府の蒸気船で山口県の周防大島に上陸し、長州軍とたたかったことなどを記録。一連のたたかいのなかで、ひだりのてとひだりあしのつけねにすりきずをおったこともかきのこした。
水戸藩の尊王攘夷派が挙兵した天狗党の征伐の記録では、天狗党が中山道をすすむのをけん制しながら、美濃関ヶ原へむかった体験をつづっとる。
あんじょうし歴史博物館の水谷令子専門整理員は「古文書だけでなく、弾丸やたまいれぶくろも、幕府が西洋式銃をもちいとったことをうらづけるもので貴重だ」ってはなしとる。いっぽう、寄贈した山口笑子さんは「先祖がいっしょうけんめいやったことが評価されてうれしい」ってよろこんどる。
寄贈資料の一部は常設展で展示されとる。観覧料200円。
〔といあわせ=あんじょうし歴史博物館=0566-77-6655〕
農民の従軍記録発見 - あさひ 2016.4.5
幕末の江戸幕府歩兵隊 - あんじょうし歴史博物館「貴重な資料」
幕末、江戸幕府の歩兵隊に参加したあんじょうむらの農民の従軍記録がみつかった。あんじょうし歴史博物館が2016年5月よっか記者会見し、発表した。この博物館は「明治維新史をかんがえるうえで貴重な資料」ってし、常設展示するっていう。
資料は22年まえ、あんじょう市内の山口笑子さんからこの博物館に寄贈された。この博物館によると、「長州征伐記」など22点からなり、執筆者は農民で、江戸の旗本家へ奉公しとった山口柳助(后年、権六)の21才から5年間の従軍記録だ。
ういじんは1864年、水戸藩の尊王攘夷派が挙兵した天狗党征伐。柳助たちは実線こそなかったけど、中山道で、京都をめざす天狗党を警戒しつづけた。また、第2次長州征伐にも参加した。
柳助は従軍機関におとずれた28か国366のしゅくばや休憩所、やどのなを記録し、おかずやふとん、ふろの代金や寺社への参拝記録ものこした。
以上