岡崎の能見(のみ)ってとこに松応寺(しょうおうじ)っていうおてらがある。ばしょは岡崎城からきたに800メートルぐらいいったとこだ。
松応寺
松応寺の本堂におまいりをして、よこをみるとこんな説明がきがある。
1549年、松平八代広忠(ひろただ)(家康のちち)が岡崎城内で(家臣によって)ころされました。ほのなきがらを密葬したのがこの地であったっていわれております。
家康は1560年、桶狭間(おけはざま)のたたかいのあと、岡崎城主となり、ちちのためにはかのちかくにてらをたてました。じぶんでうえたまつが念願どおりしげったこと、ひとじちのみから独立し三河の地にふたたびかえれたことをよろこび、てらを松応寺(しょうおうじ)ってなづけたってつたえられております。
おおっ! ここが徳川家康のちちおやの菩提寺(ぼだいじ)になるのか。ほんで、家康が一族繁栄のいのりをこめてうえたまつが、ほのいのりにこたえるようにりっぱにそだっとったことをよろこんで、おてらのなまえを松応寺ってなづけただ。うん、由緒あるじゃん。いや、ほれにしても、ちちおやが家臣にころされるっていうような状態から、ようもちなおしたもんだって感心するわ。
梵鐘
また境内のひがしのほうに、かねつきどうがあって、説明がきもある。
この梵鐘(ぼんしょう)は、1635年家康の九男で尾張徳川家の始祖、徳川義直が鋳造、寄進したもので、銘は江戸時代の有名な儒学者、林道春(林羅山)です。
太平洋戦争中、寺院の梵鐘は、武器製造などのため供出が強制されましたが、この梵鐘は文化的な価値がたかいとして、供出をまぬがれました。
しかし、1945年、アメリカ軍のくうしゅうで、梵鐘も戦火につつまれましたが、さいわい破砕はしませんでした。
かねつきどうは、1980年にようやく再建され、現在もかねのおとをひびかせてくれております。
うん、このつりがねも、家康のこどもがつくったっていう由緒のあるもんなだ。太平洋戦争の岡崎くうしゅうでかねつきどうは被害をうけるも、つりがねのほうはなんとかいきのこっただね。
松平広忠公御廟所
また、こんな説明がきが境内にあった。
1.史跡 - 松平広忠公御廟所
1560年、徳川家康がちち広忠の菩提をとむらうため、遺骸が荼毘(だび)に付されたこの地に松応寺を建立した。1605年の57回忌に家康により廟所が整備された。
おおっ! ここには松平広忠公御廟所もあるのか。本堂のよこからうらにつうじて御廟所にいけるようになっとる。
御廟所のいりぐちをくぐると1本のまつがめにはいる。これが「一族繁栄のいのりにこたえてくれたまつ」か。
松平広忠公御廟所
徳川家康公のちち、松平広忠公は1549年3月、岡崎城中で家臣に刺殺され、なきがらはこの地に埋葬されました。
当時、ひとじちとして尾張におった松平竹千代(家康)は、おんなじ1549年11月、岡崎にかえると、このはかのうえにこまつひとかぶをうえ、松平一族の繁栄を祈願しました。
1560年、家康は桶狭間のたたかいのあと、岡崎城主となり、この地におてらを建立しました。てうえのまつがみどりふかく、当方に伸長するのをみて、「わが祈念に応ずるまつなり」として、松応寺となづけました。
この御廟所は1605年、広忠の57回忌にあたり、本堂などとともに造営、整備され、家康をはじめ秀忠、家光など歴代将軍が参詣しました。
うん、御廟所っていうふんいきもたっぷりだ。
ここにも説明がきがある。能見山瑞雲院松応寺ってのが松応寺の正式ななまえか。おおきく「どんなながあめでもはれぬながあめはない」ってかいてあるのは家康のことばか。「ひとの一生はおもきにをおうて、とおきみちをいくがごとし」っていう有名なことばとおんなじ趣旨だよな。
歴史をかんじさせてくれるおてらではあるけど、家康のちちおやの菩提寺にしちゃあ、てがはいっとらんよなってなことをおもいながら松応寺をあとにした。
(さんこう)
- 岡崎ってこんなにバスがいっぱいはしっとる@@! - あきひこゆめてつどう|2015/06/24
- 能見町をきた方向にいくバスをみおくったあと、みなみ方向、東岡崎にいくバスにのる。いきさきは福岡町だった。