あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

嘯月楼 (しょうげつろう)の まるまど

おとつい にちようび、ひとなみに もみじでも みに いくか!って ことで、丈山苑 (じょうざんえん)に あしを はこんだ。で、玄関 はいって うえを みると、中二階 みたいな とこの しょうじが あいとるじゃんか。なんか 秘密 基地 みたいで、これ だけで テンション あがる。

20131124 14:39 丈山苑 嘯月楼 (じょうざんえん しょうげつろう)

そばに 「こちら なんとか楼 (ろう)」って いう 案内が ある。楼って ことは 展望台って ことか。いったん しょうじの へやに あがると、ほとんど 垂直に ちかい 階段が ある。こいつを のぼると、おおーっ! まるまどから みる もみじが すばらしい!

20131124 14:37 丈山苑 嘯月楼 (じょうざんえん しょうげつろう)

あとで パンフレット みて みたら、なんとか楼は 嘯月楼 (しょうげつろう)って いう なまえだった。うん、格別な ふぜいって いう ことばにも いつわりは ない。

嘯月楼の まるまど ごしに みる 庭園 (丈山苑 パンフレットから)
詩仙堂 ゆかりの 嘯月楼から 庭園を ながめる ふぜいは 格別。つきに したしみ、つきに 吟ずる 丈山の 世界に ひたる ことが できます。

にわにも、もみじを たのしむ ひとが ようけ おる。

20131124 14:43 丈山苑 (じょうざんえん)

うちに かえって、石川丈山の おべんきょう。

石川丈山に ついて (丈山苑 パンフレットから)
石川丈山は、なは 重之。1583年、三河国 碧海郡 和泉郷で、代々 松平家に つかえた 三河 武士の いえに うまれた。16才で 徳川家康の 近習 (きんじゅ)と なり、かずかずの てがらを たてたが、33才の ときに 大阪 なつの 陣に おいて 先登 (せんとう)した ため 軍令 違反を とわれ、蟄居 (ちっきょ)するに いたる。これを 機に 学を こころざし、林羅山 (はやし らざん)を 介して 藤原惺窩 (ふじわら せいか)と であい、儒学の おしえを うける なかで じぶんの すすむ みちを みつけた。
しかし ははに 孝養を つくす ため、やむなく 広島藩の 浅野家へ 儒学者と して 再出仕した。浅野家に つかえて 13年めに ははを なくし、翌年 広島を さり、54才に して京都 相国寺 (しょうこくじ) 畔に 住す。1641年、59才で 洛北 一乗寺に 詩仙堂を ひらき、風雅を たのしみ 詩作に あそぶ 悠々 自適 (ゆうゆう じてき)の 文人と しての 生涯を ここで おくり、望郷の 念を いだきながら 90才の 天寿を まっとうする。丈山は 漢詩人で あり、隷書 (れいしょ)を わがくにで はじめて とりいれた 書家と して しられる ほか、作庭家でも あり、にほんに おける 煎茶 (文人茶)の 開祖とも いわれとる。

なるほど、家康に ついて 大阪 なつの 陣に いき、一転して 藤原惺窩に 儒学を まなび、広島藩に つかえ、さいごは 京都に 詩仙堂を ひらくか。石川丈山って 波乱 万丈 (はらん ばんじょう)の 人生を あゆんだだ。


(さんこう)
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