「あんじょうのまちをつくったおとこ」っていう題で講演があった。まちのえき岡菊苑の開業式典にひきつづいておこなわれたもので、安城市歴史博物館の館長高山忠士さんによるものだ。
まずは10時半から岡菊苑の開業式典。安城市長らのあいさつにつづいてくすだまわり。ぱちぱちぱち~っ!
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つづいて11時から安城市歴史博物館の館長高山忠士さんによる記念講演。以下に講演できいたこと、きいてかんじたことをかいつまんでかきしるす。
安城村は明治の廃藩置県により静岡県に編入。額田県、愛知県に編入されるのはほのあと。1891年に安城村に東海道線のえきができて、ほっから発展がはじまる。
えきができたのは、安城村でもひとのすんどらん安城がはらのまっただなかだっただけど、1903年にはここまで発展。安城駅のまわりには、旅館、運送や、馬車や、めしや、銀行、郵便局のほか、岡田菊次郎のちちのいとなむ精米所もできとる。南明治で83戸、北明治で32戸をかぞえるまでになる。これも、村会議員や村長をつとめてきた岡田菊次郎のちからによるところがおおきい。
1906年に村から町に昇格してからも、おおくの期間町長をつとめることになる岡田菊次郎は、また農林学校を誘致。にほん三大農学校のひとつだ。さらに安城駅から四方八方につながる道路をつくる。まわりの自治体にくらべて圧倒的に優位にたつ。
えき開設后の30年間をざっとみてみる。1891年に安城駅設置。1901年に農林学校設置。1906年に村から町に移行。1907年に東海道線が複線化。1910年に警察署が知立から安城に移転。1914年には郡役所も知立から安城に移転。これは全国的にみてもきわめてまれなことである。岡田菊次郎の政治力やおそるべし。このあと、安城はにほんのデンマークとして発展をとげ、全国から年間2万人の視察者がおとずれるようになる。
ところが、にほんのデンマークもいつまでもつづくもんじゃない。大正末期からの農村不況で、三州社が倒産したり、山丸製糸がひきあげたり。安城の工業の80パーセントが製糸業だっただけに、これはおおきないたで。大東亜戦争がちかづくにつれ、安城農業の特色だった多角経営も、穀物増産の方向に転換を余儀なくされる。
ほこで岡田菊次郎は、安城の発展をとだえさせちゃならんと、内外綿の工場を誘致。いまの倉敷紡績だ。ほかに、マキノやワシノも誘致。ちなみに豊田自動織機も誘致せえとしただけど、こっちは刈谷にとられちゃったとのこと。
岡田菊次郎のまちづくりはみっつ。ひとつ、まちは結節点。道路網の整備もこのため。ひとつ、みやこといち。行政、金融、商業の集積が必要。ひとつ、住民の生活がだいじ。商工会の設立や工場誘致もこのため。
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講演もおわり、朝日町西バス停からあんくるバスでかえることに。きょうはまちなかで開催のサンクスフェスティバルにあわせて、あんくるバス無料乗車のひだった。
やってきたっておもったら名鉄バス。いや、バスのまえに「あんくるばす循環線みぎまわり」っていうはりがみがある。代車だったのか。
(さんこう)