岳南電車、比奈(ひな)のえきをおりて、きたにあるく。製紙工場のあいだをぬけたあとは左右はず~っと住宅街になるだけど、街道をよこぎると、みちはのぼりざかになって、ちょっといったとこにこんないしぶみがある。このさかみちには御崎坂(みさきざか)っていうなまえがついとって、むかしはこのへんがうみにつきだすみさきだったことによるもんだとのこと。
御崎坂のいわれ 〔かくだい〕
この地はむかしみなみのふもとまでみさきになっておりました。古墳時代には農耕集落が発達し、東坂古墳や大坂上古墳としてほの首長墓がこのうえにきずかれました。
700年代に郷村の地名が好字の漢字2字であらわされるようになり「岬」が「御崎」となりました。この御崎には東西の街道からきたにむかうさかみちがあり、このさかを御崎坂ってよぶようになりました。ほんでこの御崎戸の地名はここがきたにいくとぐちを意味したからです。
1180年10月、源頼朝が富士川(ふじかわ)をはさんで平家の軍勢と対陣したとき、源氏の大軍はこのあたりに陣をひき兵糧をおいてそなえました。また頼朝はこの御崎神社にぬさをまつったってつたえられております。
ここにある御崎神社の創建はふるく1177年といわれております。祭神(さいじん)は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で食物をつかさどるかみとしてあがめられてきました。
いにしえのロマンあるかぐやひめのたけとりものがたりは、この姫名村(ひなむら=比奈村)が発祥の地といわれております。かぐやひめたんじょうの地とされとる竹採公園はこのさかからきたへ800メートルほどすすんだところにあります。ここはかって白隠禅師ゆかりの臨済宗雲門山無量寿寺のあとで、禅師のはかもあります。
月澄むや姫名の里の竹□こゑ
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いしぶみからさらにさかをのぼって、たけとり公園にとうちゃく。比奈(ひな)のえきから20分ぐらいかかったか。いりぐちの説明がきをよむと、ここがあのたけとりものがたりの舞台だったってことがわかる。
富士につたわるたけとりものがたり 〔かくだい〕
たけとりのおきなとたけからうまれたかぐやひめの「たけとりものがたり」は、とおく奈良、平安時代のころよりかたりつがれてきました。ここ中比奈、竹採公園には「竹採姫」ときざんだ自然石のちいさなつかがあり、ふるくからひめとおきながすんだところとつたえられております。つきの世界にかえっていくあらすじの「たけとりものがたり」は童話やえほんなどでよくしられておりますけど、富士につたわるものがたりはほれとたしょう内容をことにし、つぎのようにかたられておりました。
「延暦(えんりゃく)年中*1のこと、この篭畑(かごはた)の地におきな夫婦がすんどった。おきなはかごをつくることをなりわいとし、さとびとはこれを作竹翁あるいは寒竹翁っていい、あるひ、おきなはたけのなかから一寸あまりの少女をさずかった。そだつにしたがいうつくしく、容顔美麗、無双の美女でかぐやひめとなづけた。このことをしった国司は珍宝をもってまねいたが、ひめは応じんかったため、わざわざひめのもとにおしかけ、数年間をともにくらした。あるとき、ひめは国司にひまをもらい、富士山の仙洞(せんどう)へかえりたいとねがいでるけどゆるされず、ひとつのはこをのこしてさってしまった。国司はひめのさったことをかなしみ、あとをおい富士山のいただきにきてみるとおおいけがあり、いけのなかには宮殿があって、でてきたひめはもやは人間ではなく天女でひめのほれまでの容顔とはことなっとった。これをみた国司はかなしみのあまり、ひめののこしたはこをかかえて、いけにみをなげてしんじゃった」っていうことです。(1884年『皇国地誌編集』比奈村古跡の条より)
ここの周辺には、ものがたりにふさわしく「赫夜姫」「篭畑」「見返し」などの地名があるほか、「比奈」の地名も平安時代の「和名抄(わみょうしょう)」にある「姫名郷」にかかわるものとされ、かぐやひめとの関係を暗示させ、ものがたり発祥のふんいきをただよわせております。
たけばやしのなかに、たけとりづかがある。ここが、かぐやひめがうまれたばしょだ。
このあと、ちいさなおんなのこのふたりづれとあって、ことばをかわす。かぐやひめがいまによみがえったのかっておもう、かわいらしさだったよ(^_^)
(さんこう)
- 岳南電車のたび - あきひこゆめてつどう
- 比奈のえきからあるいてさかみちをのぼること20分、竹採公園にとうちゃく。|いわせあきひこ|フェースブック|2015年5月9日10:38
- わたしだけの富岳百景 - 岳南鉄道線 - 桐生典子さん - あきひこゆめてつどう|2014/05/06
*1:782年から805年