彦根城(ひこねじょう)は徳川譜代大名井伊家の居城として有名だけど、佐和山城(さわやまじょう)は豊臣五奉行のひとり石田三成の居城だったにもかかわらずあんまりしられとらん。ところで、石田三成が1600年、関ヶ原(せきがはら)のたたかいでやぶれ、ぬしをうしなった佐和山城にはいったのは井伊家初代の井伊直政だっただけど、すぐに移転を計画し、つぎの代に彦根城にうつっただった。
彦根城をきずくにあたっては一部、佐和山城のいしがきもつかったっていうことが、ことし2015年3月13日の京都新聞、中日新聞にのっとった。
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佐和山城のいしがき、彦根城に再利用(京都新聞)
- 彦根市教育委員会は2015年3月12日、「徳川家重臣だった井伊家の居城で特別史跡になっとる彦根城から、石田三成の居城で関ケ原の合戦(かっせん)で落城した佐和山城でつかわれとったいしがきとかわらのかけらを確認した」って発表した。佐和山城のいしがきを利用したことは江戸中期にかかれた井伊家文書「井伊年譜」に記述があるけど、じっさいに発見されたのははじめて。彦根市教育委員会は、豊臣家とのたたかいにそなえ、築城をいそぐため再利用したじゃないかってしとる。
- 佐和山城は、彦根城のひがし2キロにあり、石田三成が1600年に西軍をひきいて関ケ原の合戦でやぶれたあと、徳川家康の重鎮井伊直政(いいなおまさ)が城主となり、1604年の彦根城築城開始にともない廃城となった。
△ 佐和山城と彦根城の地図(あきひこ) - しろがきずかれた標高232メートルの佐和山の地盤には、堆積岩の一種である、あおみがかったチャートがふくまれとる。本丸あとにわずかにのこるいしがきにもチャートが確認された。こうしたいしがきは彦根城でこれまで確認されず、佐和山城のいしがきはどこにいったのかなぞとされとった。
△ 彦根城の平面図 - 遊心六中記 - こんかいみつかったいしがきは、彦根城大手門あとにちかい「鐘の丸」のにし面で確認された。鐘の丸は城内でさいしょに完成したくるわで初代城主の井伊直継(いいなおつぐ)がさいしょにすんだたてものがあったってつたわる。いしがきも築城当初につくられ、一度も修理されてない。
△ 彦根城鐘の丸にし面のいしがき(京都新聞) - 確認されたいしがきには、チャートと湖東流紋岩という2種類のいしが混在しとるけど、滋賀県内のしろでチャートのいしがきは佐和山城だけで、石材をうつして再利用したって断定した。たかさ7メートル、ながさ30メートルにわたりくまれ、おおきいいしではたて60センチ、よこ120センチあった。
- かわらのかけらは、「太鼓丸」のひがしがわのいしがきのうちがわから出土。てのひら大のまるがわらやひらがわらなどがあり、くりいしのかわりにつめられとったってみられる。このうちのきひらがわらのかけらに、佐和山城あとから出土したものとおんなじ文様「一巻き均整唐草文」があった。この文様は滋賀県内では佐和山城あとでしかみつかっておらず、佐和山城でつかわれとったって推定できる「二重の均整唐草文」も出土した。「二重の均整唐草文」は伏見城から金箔(きんぱく)がわらとして出土しとるっていう。
- 城郭史の中井均滋賀県立大学教授は「佐和山城から彦根城へ移築したとの文献は江戸中期の記述だで内容に疑問もあったけど、考古学的に移築が立証できたことは価値がある」ってはなす。
- 2015年3月13日から彦根城の開国記念館で出土したかわらのかけらの展示をおこなう。
彦根城、いしがきは再利用材(中日新聞)
- 佐和山城は豊臣かたの石田三成の居城としてしられるけど、1600年の関ヶ原のたたかいのあと、徳川家康の重心井伊直政にあたえられた。さらに居城を移転してたてられた彦根城は、廃城の部材を再利用して1604年から1622年にきずかれた。
△ 彦根城、いしがきは再利用材 - 2015.3.13 ちゅうにち
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う~ん、おれも大学時代を彦根ですごしただけどね、佐和山城と彦根城にこんな関係があったとはしらんかったよ。おしろのあとしかないけど、いっかい佐和山城にもいってみたいな。
(さんこう)