こないだ 12月 16日の 衆院選では 自民党が 民主党に 圧勝して 政権を うばいかえした とこだけど、ほれより まえ、10月 ようかの 日本経済新聞 ウェブ版に 池上彰さんの 講義録が のっとった。これ よむと、戦後 にほんの 政党 政治の 歴史が よう わかる。
〔池上彰の 教養 講座 (2012/10/8 3:30)〕
−東工大 講義録から−
消費税 増税 法案は 民主党と 自民党、公明党の 3党 合意に よって 成立した。ところが、自民党は 参議院で 野田 内閣に たいする 問責 決議案に 賛成した。この 決議案は 野田 内閣が 消費税 増税に ふみきった ことを 批判しとる。自民党は 消費税 増税に 賛成した はずなのに、消費税 増税を 批判する。どう いう ことなのか 理解に くるしむ。
じつは 消費税 増税 ばかりで なく、自衛隊の やくわりも、安保 条約も、民主党と 自民党では かんがえかたに 大差 ない。政策が にとる 政党が たがいに あいてを 批判しあっとる。ふしぎな 政治の ふうけいだ。
〔写真〕 自民党は 消費税 増税に 賛成なのか 反対なのか (野田 総理 大臣に たいする 問責 決議 案を 採決する 参院 本会議、2012年 8月 29日)
これが アメリカだと、民主党は 「おおきな 政府」派、共和党は 「ちいさな 政府」派。たがいに 政策は おおきく ことなり、国民に 選択を せまる。
にほんの 政治は、「どちらの 政党が 政権を とっても、しょせん おんなじだらあ」と 国民が おもって しまう ため、政治 不信は つのる ばかりだ。
かつての にほんの 政治は、自民党と 社会党と いう 二大 政党が、国民に 針路の 選択を せまって きた。これは 「55年 体制」と よばれた。それが、どうして、こんな ことに なったのか。じつは、この 「55年 体制」の なかに、現在へと つながる 萌芽 (ほうが)が あっただ。
ほれを かんがえる ために、まずは 「55年 体制」の 発足の 歴史を みて みまい。
社会党 政権の 成立と 崩壊
いまは 極小 政党に なっちゃった 社民党 (社会民主党)は、かつて 日本社会党と なのっとった 時代、政権を とった ことが ある。1947年の 総選挙の 結果だった。
この ときの 選挙では、日本社会党が 143議席、日本自由党が 131議席、日本民主党が 124議席で、日本社会党が はじめて 第1党に 躍進した。
〔写真〕 いけがみ あきら ジャーナリスト。東京工業大学 リベラルアーツセンター 教授。1950年 うまれ。1973年に NHKに 記者と して 入局。1994年から 11年間 「週刊こどもニュース」 担当。2005年に 独立。近著に 「池上彰のやさしい経済学」 (日本経済新聞出版社)。長野県 出身。62才。
しかし、過半数は とれんかった ため、日本民主党、国民協同党と ともに 連立 政権を くんだ。当時、社会党は 第1党に 躍進するとは おもって おらず、幹部たちは 選挙の 結果に あわてたと いう 証言が ある。
第1党の 社会党 委員長の 片山哲が 総理 大臣に 就任する。しかし、社会党は 党内で 左右の 対立が はげしく、意見の 対立が あいつぎ、政権は ながつづきせんかった。
1948年、片山 内閣は 総辞職に おいこまれた。片山 内閣の 予算 案に ふくまれとった 公共 料金 ねあげの 予算 案に おんなじ 党内の 左派が 反対した ためだ。
せっかく 政権を とったのに、党内が まとまる ことが できんかった ために、はつの 社会党 政権が 維持できんかっただ。
1949年 1月の 総選挙で 吉田茂 ひきいる 民主自由党が 264議席の 絶対 多数を 獲得し、吉田 内閣が たんじょうする。吉田 内閣は 過去にも 成立しとったで、この ときが 第二次 吉田 内閣に なる。
〔写真〕 264議席の 絶対 多数を 獲得し 第2次 吉田 内閣が 発足した (はつ 閣議 終了後、記者団と 会見する 吉田茂 総理 大臣。1949年 2月)=共同
この 総選挙で 社会党は 惨敗。48議席しか 獲得できんかった。政権を 維持できんかった 社会党に 国民が レッドカードを つきつけただ。
左右の 社会党の 統一
ほの あと、社会党の 党内 対立は 一段と 激化する。1951年 10月の 社会党 大会で、左右 両派は サンフランシスコ講和条約を みとめるか どうかで 深刻な 対立に おちいる。アメリカなどとの 講和 条約に 賛成する 右派と、ソ連など 社会 主義 諸国を ふくめた 全面 講和を もとめる 左派が 対立しただ。資本 主義 陣営に 参加する ことを もとめる 右派と、社会 主義 陣営との 友好を 重視する 左派との 対立だった。東西 冷戦の 対立が 社会党 内部でも おきただ。
この 結果、社会党は 左右に 分裂しちゃう。どちらも 社会党を なのった ため、マスコミは 右派 社会党、左派 社会党と 区別して よんだ。
〔写真〕 みずと あぶらの 関係に あった 社会党の 右派と 左派は、歴史的な 統一を はたした (社会党 統一 大会で 鈴木茂三郎 委員長 (ひだり)と 握手する 浅沼稲次郎 書記長、1955年 10月 14日)
ほの あとの 総選挙では、選挙の たびに 左右 どちらの 社会党も 議席を ふやす。ほの 結果、左右 両党が いっしょに なれば 政権が とれるかも しれんって いう 期待が たかまる。
1955年 10月、左右の 社会党は 意見の ちがいを のこしながらも 統一を はたす。委員長は 議席の おおい 左派の 鈴木茂三郎、書記長は 右派の 浅沼稲次郎が えらばれた。
左派は 平和 革命に よって にほんに 社会 主義 政権を 実現せえって いう 路線だったのに たいして、右派は にし ヨーロッパ流の 社会 民主 主義を めざしとった。マルクス・レーニン 主義に もとづく 階級 政党を めざす 左派と、大衆 政党を めざす 右派は、いわば みずと あぶらの 関係だっただけど、いっしょに なった 結果、統一 社会党の 性格は、「階級的 大衆 政党」と いう ことに なった。まさに ふたつを たしただ。
ほの あとも 社会党 内部では 左右の 意見 対立が つづき、右派の 一部は 1960年、社会党を とびだして、民主社会党を 結成。ほの あと、党名は 民社党に なる。
日本社会党の 統一は、当時の 財界に 危機感を いだかせた。躍進を つづける 左右 両方の 社会党が いっしょに なる ことで、社会党が 政権を 奪取し、にほんが 社会 主義に なる 可能性が たかまると かんがえたでだ。
保守の 合同
社会党が 統一したのに、保守 勢力が 分裂しとっちゃ いかん。こう かんがえた 財界からの 要請で、保守 勢力の 日本民主党と 自由党が 保守 合同に ふみきる。自由民主党が たんじょうしただ。
〔写真〕 経済界からの 要請で 日本民主党と 自由党は 保守 合同に ふみきった (中央大学の 講堂で ひらかれた 民主党と 自由党が 合併した 自由民主党の 結党 大会、1955年 11月 15日、東京 神田)=共同
「改憲・保守・安保 護持」を かかげる 自由民主党と、「護憲・革新・反 安保」を かかげる 日本社会党の 二大 政党 体制が たんじょうしただ。1955年の ことだったで、これを 「55年 体制」と よぶ。1955年 当時の 国際 情勢は、アメリカを 中心と する にしがわ 諸国と、ソビエト連邦が 指導する ひがしがわ 諸国が きびしく 対立しとった。「東西 冷戦」だ。この 冷戦が にほん 国内でも 形成されたのが、55年 体制だった。
戦後の にほんを かたちづくった にほんこく 憲法は、にほんを 占領した 連合国軍から しめされた 草案に もとづいとった。自由民主党は、これを 「おしつけ 憲法」と うけとめ、自主 憲法 制定を 党是に さだめた。
一方、社会党は、平和 憲法を たかく 評価し、護憲 政党を 任じる。
1958年に 実施された 総選挙では たがいに 過半数に のぼる 候補を たて、まっこうから あらそう。まさに 政権 あらそいだっただ。投票率 76.99パーセントは、男女 普通 選挙に なってからでは 最高の 記録で、二大 政党制への 国民の 関心の たかまりを しめした ものだった。
ほの 結果、定数 467の 衆議院で、自由民主党 287議席 (ほか、追加 公認 11)、日本社会党 166議席 (ほか、追加 公認 1)と なり、二大 政党の 公認 候補 だけで 97パーセントの 議席を しめた。
政権 交代と 憲法 改正の ない 体制に
しかし、議席数は 追加 公認を ふくめると、自由民主党が 1議席を へらした だけの 圧勝。日本社会党は 7議席を ふやした ものの、改憲 阻止に 必要な 3分の 1の 議席を 確保したに とどまった。
このように、二大 政党制と いっても 国会の 議席数では 自由民主党と 日本社会党の 勢力比は 2 たい 1に ちかい 状態だった。ほの ため、「1と 2分の 1 政党制」とでも よんだ ほうが 実態に ちかい ものだっただ。
55年 体制では、自由民主党から 日本社会党への 政権 交代が 実現せん 一方、保守 政党は 国会で 憲法 改正の ための 3分の 2 以上の 議席を 確保できんかった ことから、政権 交代と 憲法 改正の ない 体制だった。
こういう 状態が つづくと、社会党は 国会で 3分の 1 以上の 議席さえ 確保しとや、自民党に よる 憲法 改正を 阻止する ことが できる。護憲の はたじるしを まもる ことが できる。やがて 社会党は 3分の 1 以上の 議席で 満足する ように なり、政権を 奪取する 気概に かけて いく ように なる。
一方の 自民党も、憲法 改正に 必要な 3分の 2を 確保できん まま、改憲への 意欲を うしなって いく ように なる。両党とも 現状 維持が ここちよい 状態に なって いくだ。
日本社会党は 労働 くみあいを 支持 基盤に しとった。当時は 総評 (日本労働組合総評議会)と いう 巨大な 労働 くみあいの 連合 組織が あり、ここに 所属する くみあいいんが 社会党の 選挙 運動の 中心を になった。
ほの 結果、労働 くみあい 出身者が 社会党の 候補に なる 傾向が つよまる。労働 くみあいの 幹部を つとめた 人物が、“第二の 人生”と して 社会党の 国会 議員に なる コースが できあがる。
〔写真〕 社会党は 巨大な 労働 くみあいの 連合 組織を 支持 基盤に しとった (社会、共産、公明 3党に よる 小選挙区制 粉砕 統一 行動の 中央 集会で あいさつする 市川誠 総評 議長 (ひだり)、1973年 5月 15日、明治公園)
こうなると、社会党は 労働 くみあい 出身者の 当選を 重視する。また、国会で 過半数の 議席を 確保できん 状態が つづく ことで、1960年代 末期 以降は、「安全 第一」と ばかりに、総選挙の たびに 公認 候補者を へらす 消極策を とる ように なる。
こうして 日本社会党は 選挙の たびに 勢力を 衰退させ、「長期 低落 傾向」と よばれる ように なる。
野党 勢力は ほの あと、民社党や 日本共産党の 伸長、公明党の 結成に よって 多党化が すすみ、1党で 自由民主党に 対抗できる 政党は 皆無と なった。
一方、自由民主党も 勢力は かげりを みせはじめたけど、日本社会党も 歩調を あわせるかの ように 議席を へらしただ。
さらに、1989年 あきの ひがし ヨーロッパ 革命から 1991年 12月の ソ連 崩壊に より、にほん 国内で 社会 主義への 幻滅が ひろがった ことも 社会党の 勢力 減退に 拍車を かけた。
〔写真〕 ソ連の 崩壊に ともない にほんでも 社会 主義への 幻滅が ひろがった (テレビで 辞任 演説を する ゴルバチョフ ソ連 大統領、1991年 12月 25日)=AP
自民党に よる 疑似 政権 交代
55年 体制は 政権 交代を もたらさんかった。ほの かわり、自民党 内部の 派閥 抗争に よって あたらしい 総理 大臣が たんじょうする。これが、いわば 疑似 政権 交代と なり、国民は あえて 社会党に よる 政権 交代を のぞまん ように なった。
自民党には いくつもの 派閥が 存在した。こうした 派閥は、「おおきな 政府」を 志向する 勢力や 「ちいさな 政府」を もとめる グループなど、さまざまだ。政治的な 意見が おおきく ことなる ひとたちが おっただけど、自民党に とどまる かぎり、政権党と して ちからを 発揮したり、利権に 関与したり する ことが 可能だった。
こうした 派閥の トップが あらたな 総理 大臣に なると、ほれまでの 路線を おおきく 変更する ことが しばしば おきた。これが、あたかも 政権 交代の ような やくわりを はたしただ。
しかし、自民党に よる 長期 政権は さまざまな 腐敗も ひきおこす。
とりわけ 1988年の リクルート 事件や 1992年の 東京佐川急便 事件に より、国民の 政治 不信は 頂点に たっした。
政治の 腐敗を ふせぐ ためには、かねの かからん 政治が 必要だ。ほの ためには、選挙 資金が すくなくて すむ 小選挙区 政治が ふさわしい。従来の 中選挙区制では、おんなじ 政党から 複数の 候補者が 立候補して 当選し、当選後は べつの 派閥に 所属する ことで 派閥 あらそいが つづく。派閥は 組織を 維持する ために 多額の 政治 資金を 必要と する。小選挙区なら 党の 候補者は ひとり だけ。党営 選挙と なり、多額の 政治 資金が 不要に なる。こうした かんがえかたが 浮上し、小選挙区制を 中心と する 政治 改革が 必要だと いう 世論が 形成される。
これを うけて 海部 内閣、宮沢 内閣が 政治 改革 関連 法案を 提出するけど、いずれも 最終的に 廃案と なった。
こうした 自民党の 執行部に たいする 自民党 内部の 反発が つよまり、自民党は 分裂する。
宮沢 内閣の 政治 改革 関連 法案の 廃案に 反発した 自民党の 議員が 大量に 離党し、羽田孜、小沢一郎らに よる 新生党や、武村正義らに よる 新党さきがけの ふたつの 新党が 結成される。
ほの 結果、1993年の 総選挙で 自由民主党は おおはばに 過半数を わりこむ 結果と なった。また、日本社会党も 政治の 主導権を にぎる ことが できん まま、惨敗した。
ほれに たいして、自民党 離党者に よる 新生党、新党さきがけ、ほれに もと 熊本県 知事の 細川護熙 ひきいる 日本新党が 躍進し、「新党 ブーム」を まきおこした。
〔写真〕 自民党 離党者が つぎつぎに 新党を 設立した (新生党の 結党を 発表する 羽田孜 党首 (前列 中央)ら、1993年 6月 23日)
55年 体制が 崩壊
自民党が 過半数を わりこんだ ことで、ほかの 政党が いっしょに なや 政権を 獲得する ことが 可能に なる。ほれを 画策したのが 小沢一郎だった。新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合は、日本新党の 細川を 総理 大臣と する ことで 合意する。これを 日本新党、新党さきがけも うけいれ、1993年 8月、細川 内閣が 成立した。自民党は 下野した。これを もって 55年 体制は 崩壊しただ。
細川 内閣は、政治 改革を にしきの みはたに して 成立した。中選挙区制から 小選挙区 比例 代表 並立制への 改革を はたす。
しかし、目標が 達成されちゃうと、求心力を うしなう。細川 総理 大臣が、とつぜん 「3パーセントの 消費税を 廃止して 7パーセントの 国民 福祉税を 創設する」と いいだした ことで、連立 政権は がたがたに なる。
〔写真〕 細川 内閣の 発足で 戦後 つづいた 55年 体制は くずれた (就任後、はじめて 会見する 細川護熙 総理 大臣、1993年 8月 10日、総理 大臣 官邸)
さらに 細川 総理 大臣 自身を めぐる 政治 資金の 不正 疑惑が 表面化した ことで、細川 総理 大臣は 辞任。細川 内閣は あっけなく 崩壊した。
細川 内閣の 後継は 羽田 内閣と なるけど、これを 機に 社会党が 連立 政権から 離脱する。ほれまでの 細川 内閣では、小沢一郎に よって さまざまな 方針が きめられとった。この なかには、従来の 社会党の 方針とは おおきく ことなる ものも あり、社会党の なかに 反 小沢 意識が 蔓延 (まんえん)しとった。細川 内閣 崩壊を きっかけに、社会党は 小沢流に 決別しただ。
この 結果、羽田 内閣は 少数 与党と して 発足せざるを えんかった。少数 与党では 政権が 維持できん。まもなく 総辞職しちゃう。
この あと、おどろくべき ことが おきる。なんと 自民党と 社会党の 連立 政権が たんじょうするだ。正確には 新党さきがけも くわわった 3党の 連立 政権だった。
自民党は 細川 政権の たんじょうで 野党に 転落。与党と して もっとった 権力を すべて うしない、野党 ぐらしの 悲哀を かこっとった。与党から 転落した とたんに、霞が関の 官僚たちも あいてを して くれんく なる。自民党は なにが なんでも 与党に 復帰せえと 画策を はじめ、社会党に てを のばす。キーワードは 「反 小沢」だった。
自民党は 小沢一郎が 自民党を とびだした ことに よって 野党に 転落したと いう うらみを もっとった。
一方、社会党も 細川 内閣 時代に 小沢一郎に にえゆを のまされたとの おもいが あった。「反 小沢」の 一点で、両党が むすびついただ。
しかし、これには 国民が おどろいた。「55年 体制」の もと、はげしく 対立して きた はずの 両党が なかよく 内閣を つくったでだ。「ほれまでの 対立は、おもてむきの ものに すぎんかったじゃ ないか」。国民の あいだに ほんな 政治 不信が ひろがる 結果と なった。
あらたに うまれた 自社さ 政権は 村山富市 社会党 委員長が 総理 大臣に 就任した。社会党 委員長が 総理 大臣に 就任するのは、1947年の 片山 内閣 以来の ことだった。
〔写真〕 連立 政権に よる 社会党 委員長の 総理 大臣 就任は 国民の 政党への 不信感を つのらせた (第81代 総理 大臣に きまった 村山富市 社会党 委員長、1994年 6月 29日)=共同
村山 総理 大臣は 総理 大臣に なるや いなや、「自衛隊は 憲法 違反では ない」、「日米 安保は 維持する」と 発言する。ほれまでの 社会党の 主張を 180度 転換させる ものだった。これも 国民を おどろかせる ものだった。ながねんの 主張を 一瞬に して かえちゃう。だったら 政党の 政策とは なんなのか。政治 不信は いっそう たかまると ともに、社会党は 崩壊への みちを すすむ ことに なる。
小沢一郎 めぐり いごく 政治
一転して 野党に 転落した 小沢一郎は、あらたに 新進党を 結成するけど、1997年には みずから 解党に ふみきり、翌年、自由党を 結成する。新進党の なかに さまざまな 勢力が はいっとる ことで、おもう ような 党 運営が できん ことに みきりを つけたとも みられとるけど、じぶんの 意見に したがう 純粋 政党を つくらあと しただ。
〔写真〕 小沢氏を めぐる 人間 関係が 政党間の 対立軸と なった (民主党と 自由党の 合併 協議書を 交換し 握手する 菅直人 民主党 代表 (ひだり)と 小沢一郎 自由党 党首。2003年 9月、東京 永田町)
にほんの 政治は 小沢一郎と いう 人物を 中心に 展開すると いう 事態が つづく ことに なっただ。
1996年 1月、とつぜん、村山 総理 大臣は 辞意を 表明する。政権に つく 準備も ない まま 総理 大臣に なった ことで、すっかり つかれちゃっただ。
後任には 自民党の 橋本龍太郎が 就任した。細川 内閣の たんじょうで 野党に 転落しとった 自民党は、ここに 自民党 政権を 復活させる ことが できただ。
一方の 社会党には 「自民党の 政権 復帰に てを かした」との 批判が あつまる。
こうした 自社さ 政権の ありかたに 批判的だった 新党さきがけの 鳩山由紀夫は、菅直人と ともに 民主党を 結成する。これが 現在の 民主党の 母体に なる 組織だった。
この あとも、さまざまな 政治 勢力が 離合 集散を くりかえす ことに なる。
ほの 結果、現在の 政治 地図が できあがって いくだけど、政策の 一致では なく 「反 小沢」で まとまるなど、人間 関係に よって 政党が うまれたり、きえたりを くりかえし、党は ちがっても 政策に おおきな ちがいが ない、と いう 状態に なっちゃった。
2009年の 総選挙で、ほれまでの 自民党 政権から 民主党 政権へと 本格的な 政権 交代が 実現したけど、政策面で みる かぎり、自民党と 民主党との あいだには おおきな ちがいが ない。これは、「55年 体制」 崩壊の あと、あたらしい 政治 体制が うまれとらん 証左だと いえるだらあ。
政策の ちがう ふたつの 政党が 国民に 選択を せまると いう 二大 政党制は、いま なお 実現しとらんだ。
(ねたもと)