あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

城東園

たぶん「じょうとうえん」ってよむだっておもう。ちゅうにちに「むかし城東園っていう歓楽街が名古屋あった」ってことがのっとった。いっかいいってみたいなっておもうけど、とりあえず記事をほのままのかたちでここに記録しとくよ。

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城東園(2015.5.28 ちゅうにち)うえ
城東園(2015.5.28 ちゅうにち)した

名古屋空襲(くうしゅう)のあと、移転し活況

名古屋城が炎上した1945年5月の空襲(くうしゅう)は、名古屋市北区下飯田町(しもいいだちょう)近辺にあった歓楽街「城東園」もやいた。城東園は空襲のあと、ちかくの名古屋市北区杉栄町周辺に移転。売春防止法が全面施行される1958年まで名古屋市中村区の名楽園につぐ愛知県内第二のあかせん区域としてにぎわった。当時のおもかげをしのばせるたてものがわずかにのこるけど、実情をしる男性は「敗戦でこころもすさんだ時代。かなしくひどい現実があった」って回顧する。(藤島崇さん)

城東園「カフェー」の女性、悲哀も

おにいさん、あそんでって♪ 豪華なにほん家屋や洋風たてもののまえで、はでなきものすがたの女性のあまいこえ。名古屋市北区杉栄町(すぎさかえちょう)の城東園は「カフェー」ってよばれた特殊飲食店が主体になっとるとおりの250メートルだけで50軒以上ひしめき、きゃくひきの女性や男性客でごったがえした。「女性はきゃくをええと必死で、ひっぱられてうわぎのボタンをちぎられたこともあった」って、ぢもとの91才の男性が当時の繁栄ぶりをかたった。敗戦当初は連合国軍総司令部GHQ(じーえっちきゅー)のアメリカ兵むけにあわてて整備したバラックのようなみせもたてられた。

あかせん時代の城東園の特殊飲食店(ちゅうにち) あかせん時代の城東園の特殊飲食店

たてもののなかのへやは四畳半(よじょうはん)ほど。ふとんがひかれたへやによっては鏡台や衣装だんすがおかれた。20代で公務員だった男性の月給が4千円の時代に料金は500円、午前零時になるとほぼ同額であさまですごせるよう交渉して、お膳で女性とむきあって朝食をたべたっていう。

ボタンをひきちぎるほどに女性がきゃくひきにけんめいだったのは、たいていは借金のため。建設業をいとなみカフェーととりひきのあった名古屋市北区味鋺(くすのきあじま)5丁目の長江冨士雄さん80才は「ばくちにおぼれたおとこがむすめをさしだすこともあったっていうで、ひどい世界だっておもった」ってふりかえる。

みせいりする女性がちちおやといっしょにおとずれると、楼主(ろうしゅ)*1ははだかをみて、ちちおやにかす金額を交渉したってされる。

たえきれん女性もおった。長江冨士雄さんは城東園ちかくにあった会社の事務所で、みせから逃亡する女性をなんどかみかけた。女性が外出するときは通常、楼主のつまらがつきそう。みはりやくのおとこがひとどおりにまぎれ、めをひからせてもおった。にげたけどつかまった女性には、病気をもった男性のあいてをさせるしうちもあったっていう。

こうした実態をみききした長江冨士雄さんは「戦争で家族や親友をめのまえでなくし、いきのこって帰国したひともしごとがない状況だった。こころうしなうひともおっただらあ。さまざまなひずみが凝縮したまちだった」ってかたった。

  • 城東園
    愛知県警察史第3巻などによると、敗戦のあとのあかせん時代、城東園は156業者が営業し、560人ほどの女性が従事した。愛知県内では名古屋市中村区の名楽園につぐ規模だった。1956年に成立した売春防止法で大半がバーや旅館に転業。おおくがいきづまり、現在は歓楽街のおもかげはとぼしい。
    いまものこる城東園のたてもの(ちゅうにち)

(さんこう)

*1:じょろうやの主人