〔2015年3月17日におとずれたピースあいちの名古屋空襲展(なごやくうしゅうてん)から〕
第3期【中小都市への空襲(くうしゅう)と工場爆撃】1945年6月から1945年8月
この時期は、天候のいいひは、ひるま、6,000メートル前后の高々度から軍需工場にたいする精密爆撃を、天候のわるいひは、夜間、中小都市にたいする焼夷弾爆撃がおこなわれた時期です。アメリカ軍はこの作戦をエンパイア計画ってよびました。
B29の爆弾積載量の増大や爆撃精度が向上し、数十機規模の小戦力でも攻撃目標にじゅうぶんな打撃をあたえることができるようになり、B29部隊は同時に複数の目標を攻撃するようになりました。1945年6月ここのかには、名古屋の愛知時計電機と愛知航空機が爆撃されました。このひの爆撃は攻撃目標が複数であったため、名古屋に接近しつつある部隊を、阪神地区の爆撃をおえた部隊ととりちがえて警報を解除するミスがおこり、2,000人をこえる多数の犠牲者をだしました。
ほのあと1945年6月はつか豊橋、6月26日名古屋造兵廠(ぞうへいしょう)各工場、愛知航空機永徳工場(えいとくこうじょう)、7月13日一宮、7月はつか岡崎、7月にじゅうよっか中島飛行機半田工場と愛知航空機永徳工場、7月28日ふたたび一宮、8月なのか豊川海軍工廠がそれぞれ爆撃されました。8月じゅうよっかには、春日井などに、原爆投下部隊による模擬原爆(パンプキン爆弾)の投下訓練などがおこなわれました。
艦載機空襲(くうしゅう)
アメリカ軍の航空母艦より発信した艦載機による愛知県への空襲は、敗戦直前の1945年7月ごろよりひんぱんとなりました。
艦載機は都市と農村をとわず、とつじょあらわれては地上をにげまどう市民を、機銃掃射しながらおいまわしました。艦載機はこがたでびんしょうであるため、機影をみとめたときにはすでににげるすべもなく、B29による爆撃とはことなる恐怖感をひとびとにあたえました。
1945.6.9 - 愛知時計空襲(くうしゅう)
一瞬にして廃墟と化した愛知時計電機。(したのパネルのうえの写真)
1945年6月ここのかの熱田空襲の愛知時計関係者などの死者2,145名の追悼のための地蔵が熱田区の愛知時計正門よこに設置されとる。(したのパネルのしたの写真)
1945.6.19、20 - 豊橋の空襲(くうしゅう)
1945年6月19日夜半からはつかにかけて福岡、静岡とともに爆撃をうけた。B29、141機が出撃し、2,100メートルから2,700メートルの高度から946トンの焼夷弾(しょういだん)を投弾した。アメリカ軍が目標とした市街地の52パーセントが焦土と化した。犠牲者数624人。なお、国民学校などに分散収容された被災者のなかから赤痢(せきり)が発生し、やけあとのバラックで生活するひとたちのあいだに蔓延、ほの死者は385人にたっしたっていう。
したのパネルの写真は、空襲でがれきのやまとなった豊橋市中心部の札木町(ふだぎちょう)から豊橋駅方面をみたとこ。
1945.7.13、28 - 一宮の空襲(くうしゅう)
1945年7月13日と28日の二度にわたり爆撃をうけた。中小都市で二度にわたって爆撃をうけたのは、ほかに大牟田と宇和島があるだけである。アメリカ軍の計画した作戦どおりの結果がえれんかったための、いわゆるやりなおしの空襲であった。B29、130機が出撃し、焼夷弾772トンをおとした1945年7月13日の空襲では、アメリカ軍が目標とした市街地面積の0.8パーセントをやいたにすぎんかったけど、投弾は周辺の農村地帯にひろく拡散し、すくなからぬ犠牲をだした。
1945年7月28日の爆撃は127機が出撃し、869トンの焼夷弾を投下、目標市街地面積の75パーセントをやきつくした。犠牲者数は二度の空襲の合計で782人。
したのパネルの写真は、一宮市上本町通り4丁目付近の一望ただやけあとになったとこ。
1945.7.15、24 - 半田の空襲(くうしゅう)
知多半島の中心である半田市は、2回の空襲をうけた。さいしょは1945年7月15日で、硫黄島基地(いおうじまきち)から飛来したアメリカ軍こがたきP51の9機によるもので、超低空からの機銃掃射により、市民8人が死亡した。
ここのかあとの1945年7月にじゅうよっか、こんどはアメリカ軍のB29爆撃機78機が来襲し、午前10時38分から56分にかけて、4,800メートルから6,000メートルの高々度から、537トンの高性能爆弾(250キロ爆弾2,148発)を投下した。
これは当時、半田市内で軍用機を生産しとった中島飛行機製作所(=いまの富士重工)を目標とする爆撃であったけど、曇天のため市街地無差別空襲と同様の結果になり、市民268人が死亡した。
したのパネルは、写真が機銃掃射による弾痕ののこる中島飛行製作所の倉庫で、図が1945年7月にじゅうよっかの半田空襲の被爆図。
1945.7.19、20 - 岡崎の空襲(くうしゅう)
1945年7月19日よるからはつかにかけて、福井、日立、銚子の各市および尼崎の石油精製所とともに爆撃をうけた。B29、130機が3,850メートルから4,950メートルの高度から850トンの焼夷弾を投下。アメリカ軍の目標とした市街地面積の68パーセントをやきつくした。犠牲者数250人以上。全市のほぼ半数の戸数が被災した。
したのパネルの写真は、1945年7月はつか、焼夷弾攻撃でほのおのうみとなった岡崎市のようす。
1945.8.7 - 豊川海軍工廠への爆撃
1945.8.14 - 春日井市
春日井市は、豊川市とともに15年戦争のさいごにうまれた都市(1943年6月ついたち)で、ふたつの陸軍工廠(りくぐんこうしょう)(※ 兵器工場のこと)が設置された。おおきな被害のでた空襲は1945年3月25日未明と1945年8月じゅうよっか午后の2回である。
終戦前日の1945年8月じゅうよっか午后、原爆投下部隊である509混成軍団が模擬爆弾を投下。受諾をせまるさいごの攻撃。7人の犠牲者がでた。
第2期の空襲(くうしゅう)で名古屋がやけのはらとなったあと、第3期の空襲(くうしゅう)ではこんどは豊橋、一宮、半田、岡崎、豊川、春日井っていう中小都市が標的になって、1945年6月から8月にかけて攻撃をうけただ。にほんがアメリカにたいして無条件降伏したのが1945年8月15日のこと。ここまでにほんじんのいのちをむだにせにゃ、戦争やめれんかったのかん。
(さんこう)