- たっとれんほどのゆれとすなぼこりだった。
- 爆弾にあたったひとのてあしやくびが空中にまいあがった。電線やきのえだにひっかかってちがあめのようにおちた。
- ころがってきたくびがわたしのまえでとまって、めがあった。
- ひだりうでがちぎれてかたからちをながした少年は「おっかさーん」ってさけんでたおれた。
- 死体を「ごめんね」っててをあわせてふみこえていった。
- ちやどろのうえに死体がういとった。
- はちまきやかみのけはのこっとったけど、かおがえぐられとった。
いき地獄だ。これが、学徒動員さきの工場で熱田くうしゅうにあったおんなのひとがかたってくれたいき地獄のふうけいだ。熱田くうしゅうがあったのが終戦のわずかふたつきまえ。反撃のちからもなくしたのにいたずらに戦争を継続して国民をむだじにさせた昭和軍部をおれはゆるせん。 かちめのないむりな作戦であることを承知のうえで兵士をむだじにさせた昭和軍部をおれはゆるせん。太平洋戦争でなくなったにほんじんは300万人にものぼる。犠牲になった兵士だけじゃなくてむだじにさせたがわの昭和軍部をもまつる靖国神社を参拝する政治家をおれはゆるせん。2年まえの中部経済新聞の記事から。
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かたりのこす戦争の記憶
2021 = 第5部 = [5]学徒動員先の名古屋市熱田区の軍需工場で1945年6月9日、「熱田くうしゅう」を経験した。工場では「お国のために」と、日の丸の鉢巻きをして「水雷」の部品を作っとった。この日の朝、くうしゅう警報がいったん解除され、皆で工場に戻るとアメリカ軍のB29爆撃機が爆音をとどろかせ飛んできた。立っとれんほどの揺れと砂ぼこりだった。
△ 学徒動員先の工場で「熱田くうしゅう」を経験した名古屋市堤茂子(つつみしげこ)さん(89)同級生2人と逃げたが途中で足が痛くなり、「私はいいから」 と泣いて別れた。1人で何とかたどり着いた川沿いの防空壕は満員で、堤防の端のへこんだ部分で膝を抱えて座った。次々と投下される爆弾に当たった人の手足や頭部が空中に舞い上がり、電線や木の枝に引っかかった。そこから血が雨のように落ちた。
周りは、どこを見ても死体ばかり。転がってきた頭部が私の前で止まり目が合った。左腕がちぎれて肩から血を流した少年は「おっかさーん」と叫んで倒れた。生き地獄だった。
死体を踏んだり蹴ったりして逃げた人もおったが、私は怖くて動けんかった。くうしゅうが収まった后「ごめんね」と手を合わせて踏み越えていった。
当時、家族で身を寄せとった市内の親戚宅に戻り母の顔を見た途端、涙があふれた。母も泣きながら抱きしめてくれた。市内にあった自宅は5月にくうしゅうで焼失しとった。
爆撃後、骨や肉片集めた
熱田くうしゅうの翌日、工場に行くと鉄骨だけ残り、中庭に爆撃で穴があき、血や泥の上に死体が浮いとった。数日間は人の骨や肉片を拾い集めることが仕事に。一緒に逃げた同級生の1人の遺体を6月末、死体置き場で見つけた。鉢巻きや髪の毛は残っとったが、顔がえぐられとった。その姿が今でも頭から離れん。
戦后は小学校の教員になった。くうしゅう警報解除ミスがあっ たと后に知ったが、命は帰ってこん。もう戦争は絶対せんと皆、誓ってほしい。くうしゅう経験を思い出したくないが、風化を防ぐためにも語り残していきたい。
熱田くうしゅう(1945年6月9日) 午前、アメリカ軍機が名古屋市熱田区の工場周辺を空爆。
2,068人が死亡、1,944人が負傷し、工業都市名古屋へのくうしゅうで最大の人的被害が出た。
くうしゅう警報の解除ミスで工場に人が戻り被害が拡大したとされる。
2021年9月23日木曜日
中部経済新聞
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【愛知県下の空襲 - 第3期【中小都市への空襲と工場爆撃】1945年6月から1945年8月】
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