あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

豊川海軍工廠展 - 2017年8月30日

なつやすみものこすとこあと1日となった2017年8月30日、豊川市桜ヶ丘ミュージアムに豊川海軍工廠展をみにいった。1945年8月なのかのアメリカ軍による豊川海軍工廠への爆撃の記録だ。以下にほのようすを紹介する。

2017.8.30 豊川海軍工廠展 (21) 工廠の概要 1900-1060

アメリカ軍がさつえいした豊川くうしゅう

兵器工場への攻撃だでやむをえんか。さいしょの着弾地点の金屋橋とか金屋小学校ってのが豊川海軍工廠からちょこっとはずれとるようなきがせんでもないけど、誤差ってとこか。

アメリカ軍がさつえいした豊川くうしゅう
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (1) アメリカ軍がさつえいした豊川くうしゅう 1420-2000
1945年8月なのか、アメリカ軍のB29爆撃機とほれを援護するP51戦闘機は豊川海軍工廠をくうしゅうし、午前10時13分から午前10時39分までの26分間に、3,256発もの500ポンド爆弾(250キロ級爆弾)を投下しました。アメリカ軍ではこのくうしゅうのときにカメラマンを同乗させて、くうしゅうのもようを記録しておりました。あめのようにふっていく爆弾や、ほれが地上で炸裂するときの閃光の明滅、ほいで豊川海軍工廠からあがる火煙など、攻撃がわからみた豊川くうしゅうのようすが記録されております。
1.TOYOKAWA
2.JAPAN STRIKEっていう題名は、にほん攻撃、にほんくうしゅうの意味。
3.くうしゅうの標的が豊川であることがしめされる。
4.カメラマン搭乗機のひだりがわをとぶ2機のB29がうつる。とおくにも10機ほどの機体がみえる。
5.コックピット搭乗員のあたまごしにみた前方のようす。
6.ふたたび、ひだりがわをとぶ2機のB29爆撃機がうつる。

2017.8.30 豊川海軍工廠展 (2) アメリカ軍がさつえいした豊川くうしゅう 1420-2000
7.前方に爆煙がみえることから、このときすでに豊川海軍工廠はくうしゅうをうけ、炎上しとることがわかる。
8.B29爆撃機が爆弾をあめのように投下しとるようす。
9.直下のようすがうつる。投下爆弾が炸裂し、閃光が明滅する。着弾地点は、姫街道金屋橋あたり(まるでかこんだ部分)。
10.ひきつづき直下のようすがうつる。爆弾がつぎつぎと投下され、炸裂時の閃光の明滅がつづく。着弾地点は、現在の金屋小学校あたり(まるでかこんだ部分)。
11.爆煙のそとがわに、妙巌寺(みょうごんじ)(豊川稲荷)境内や桜の馬場(現在の桜ヶ丘ミュージアム)、姫街道などがうつる。
13.カメラがむきをかえるさいに、豊橋市の多米(ため)方面がうつる。
14.ふたたび、直下のようすがうつる。爆煙のそとがわにみえるのは、現在の諏訪町駅付近。
15.たちのぼる爆煙が、画面いっぱいにうつる。
16.カメラのむきが爆煙のそとがわにそれ、ここで豊川くうしゅうの映像はおわる。
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (3) B29による爆撃 1760-1560
12.カメラマン搭乗機のみぎがわをとぶB29爆撃機が、爆弾をあめのように投下しとるようすがうつる。とおくに白線のようにみえるのは、表浜海岸(遠州灘海岸)。豊川をくうしゅうしたB29爆撃機の編隊の高度は一定じゃないけど、この映像のように、くもよりもたかくとび、みぎてに太平洋のおおうなばらをのぞみながらくうしゅうをおこなっとった編隊もあったことがわかる。
(1)(2) アメリカ軍がさつえいした豊川くうしゅう(3) B29による爆撃

豊川海軍工廠展のようすをつたえるちゅうにちの記事

犠牲者2,500人以上。

豊川くうしゅうのようす鮮明に - きょうから展示 - 故大須賀さんえがく
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (4) 東三河版記事 1750-840
1945年8月なのかにあり、2,500人以上が犠牲になった豊川海軍工廠にたいするアメリカ軍のくうしゅうのようすを、学徒動員されとった女性が当時をおもいだして、えにかいとった。2011年8月なのかにかいたってかきのこされとる。
豊川市桜ヶ丘ミュージアムで2017年7月22日にはじまる「豊川海軍工廠展」で展示される。2017年8月31日まで。
えをのこしたのは、豊川市立高等女学校(いまの国府高校)の生徒だった故大須賀まささん(旧姓山田、豊田市)。当時は豊川市牛久保町にすんどった。昨年2016年12月に89才でなくなったあと、ことし2017年1月に長男の哲朗さん67才が遺品を整理しとって、えがかかれた帳面をみつけた。
ほのおやくろいけむりなどのなかで、まささんっておもわれる少女がにげまどうすがたが、いろえんぴつで帳面の1ページにかかれとる。「死体のやま くびなし あしだけ てだけ」「ひのなかにとびこむかも?」などの文字もかきこまれ、緊迫したようすが表現されとる。哲朗さんには「防空壕をでたとき、将校に『こっちへこい』っていわれ、死体をふみつけてにげた」って当時をふりかえっとったっていう。
生前使用しとった遺品のかばんからは「爆撃の そらよみがえり せみしぐれ 米寿の脳や いまもはなれず」っていう短歌がかかれた紙片もみつかった。哲朗さんは「ははは戦后60年以上たっても、鮮明におぼえとった。あらためてものすごい体験だったっておもう」ってはなした。(吉田幸雄さん)
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (5) 東三河版記事 1000-1010
(4)(5) 東三河版記事

当時中学生だったひとのえ

遺体の描写がなまなましい。

1944年 - 中学2年生(工廠の食堂のようす) - 作者:都築基雄さん
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (6) 『工廠の食堂のようす』 1730-890
テーブルがおかれとるだけのがら~んとした食堂。みたら食欲がなくなるへどろのような昼食。わたしたちがおけにすてたあと、朝鮮人労働者がほれをすくってたべとった。せつない光景だった。
(6) 『工廠の食堂のようす』

1945年8月なのか午前10:13~10:39(ちらばった遺体の回収) - 作者:都築基雄さん
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (7) 『ちらばった遺体の回収』 1770-890
アメリカ軍B29爆撃機が124機で250キロ爆弾3,250発でだいくうしゅう。死者2,544人以上。中学3年生。道路にばらばらに散乱した死体をひろいあつめ、リヤカーにのせてはこんだ。
(7) 『ちらばった遺体の回収』

1945年8月 - 中学3年生 - 作者:都築基雄さん
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (8) 『防空壕の女学生』 1160-980
リヤカーで遺体をはこぶとちゅうで、防空壕でおりかさなって死んどる女学生をみた。
(8) 『防空壕の女学生』

1945年8月15日正午 - 中学3年生 - 作者:都築基雄さん
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (9) 『玉音放送』 1080-1000
破壊された工場あとにあつめられ「玉音放送」をきく。ラジオの雑音がひどく、まったくききとれんかった。中央に海軍将校がたち、ほのまえにラジオがおかれとった。
(9) 『玉音放送』

豊川海軍工廠店のポスターと主催者あいさつ

豊川海軍工廠展 - 2017年7月22日~2017年8月31日 - 豊川市桜ケ丘ミュージアム
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (11) ポスター 980-1360 2017.8.30 豊川海軍工廠展 (10) ごあいさつ 990-1330
ごあいさつ=1945年8月なのか、わたしたちのまちでは豊川海軍工廠のくうしゅうによって、動員学徒や女子挺身隊員をふくむ職員、工員ら2,500名以上のとうといいのちがうしなわれ、ほのなんばいものひとびとが負傷しました。このひ、豊川市はまさに戦場となり、わたしたちはみをもって戦争の悲惨さを経験することになりました。
ほれから70年以上の時間をへたいま、戦争っていう状況におかれたひとびとのおもいを、わたしたちはどれほどうけとめることができとるでしょうか。
本展は、豊川市の現代史のなかでも重要な豊川海軍工廠のことをしっていただかあって、平和へのあついいのりをこめて開催するものです。
2017年7月、豊川市桜ヶ丘ミュージアム
(11) ポスター(10) ごあいさつ

パネル展示

2,500人以上がなくなっとるのに、なまえがわかっとるのは228人でしかないか。くうしゅうにあたってアメリカ軍は、前年から工廠の写真さつえいをして計画をたてとる。当日は124機のB29爆撃機がやってきて、26分のあいだに500ポンド爆弾を3,256発も投下しとる。工廠にはたらいとったのは5万人以上。他県のひとをふくむ女子挺身隊や学徒動員もおったっていう。くびのない遺体、ひきちぎられたてあし。ことばもない。アメリカ軍が予想したにほん軍戦闘機による反撃はひとつもなかった。こういうふうに同胞をみごろしにしとったのがにほんの軍部だ。

パネル1~パネル12
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (18) パネル展示 (1) 1760-1060
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (19) パネル展示 (2) 1920-1080
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (20) パネル展示 (3) 1920-1080
(18)~(20) パネル展示 (1)(2)(3)

パネル2=6年后の遺体発掘
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (15) 6年后の遺体発掘 1260-920
工員の遺体は諏訪と千両に急造された墓地にかり埋葬されました。1951年6月ついたちより諏訪墓地から発掘がはじまり、おおくの遺族がこれにたちあいました。遺体は1メートル半から4メートルのふかさに埋葬され、なかには防空頭巾やてつかぶとをかぶったままのすがたで発掘されたり、千両墓地では地下水のため腐敗せんでろう人形のようにのこっとるものもありました。しかし遺体のほとんどは白骨化し、両墓地に埋葬された2,385はしらのうち氏名が判明されたのは228はしらでしかありませんでした。
(15) 6年后の遺体発掘

パネル3=豊川海軍工廠大くうしゅう、くうしゅうの計画
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (16) 豊川海軍工廠大くうしゅう 870-1220
1945年にはいるとアメリカ軍による軍需工場や都市を標的とした本土くうしゅうが本格化し、豊川周辺でも6月19日に豊橋市、7月はつかに岡崎市がくうしゅうをうけ、おおきな被害をだしました。豊川海軍工廠でも1945年5月19日にB29爆撃機により指揮兵器部付近に爆弾が投下され、30余名の犠牲者がでました
1944年11月23日にアメリカ軍は上空より工廠の写真さつえいをおこない、これにより施設の構造などを分析し、くうしゅうの計画を立案していきました。目標の重要性として「海軍兵器製造ではいちばんであり、にほんのとおの主要な海軍工廠のひとつで、機関銃、対航空兵器、ライフル銃、航空機用機銃および弾薬を製造しとる」って指摘しており、豊川海軍工廠の概要について把握しとったこともわかります。使用する弾薬は500ポンド爆弾で、ほの理由は工廠のたてものはちいさく分散しており、ほのほとんどは基本的にのこぎりやねで崩壊がひろがらんようにはばがみじかい構造となっており、直撃弾がこれらの構造と内容物とに最大の損害をあたえること、またどてにかこまれた火薬庫についてはどてのなかに直撃させることによってのみ破壊できるとし、ほれは目標地域を大量の爆弾で直撃することによって成就できるってしるしております。またにほんぐんの反撃として豊川地域において20機から30基の戦闘機が要撃してくることを予想しておりました。
(16) 豊川海軍工廠大くうしゅう

パネル4=1945年8月なのか、くうしゅうによる被害
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (17) くうしゅうによる被害 870-1220
豊川海軍工廠を目標としたくうしゅうの命令が1945年8月むいかづけ第20航空軍本部命令書第15号により発せられ、ついに運命のときをむかえることとなりました。1945年8月なのかのにほん時間午前2時40分から3時28分までのあいだに、第314爆撃団がグアム島基地、第58爆撃団がテニアン島西基地、第313爆撃団がテニアン島北基地、第73爆撃団がサイパン島イスレイ基地から、計124機のB29爆撃機が豊川海軍工廠をめざし発信し、硫黄島からは護衛としてP51戦闘機が計100機(目標にたっしたのは97機)がとびたちました。B29爆撃機の本土付近における再集合地域は、第58、第313爆撃団は潮岬東方の地点を、第73、第314爆撃団は尾鷲付近の地点が支持され、各爆撃団は再集合地域で進路をそれぞれ東北にとり松阪東方の海岸へむかい、攻撃始点である知多半島先端をへて豊川海軍工廠上空へとむかいました。そして10時13分、第314爆撃団によるさいしょのくうしゅうにはじまる豊川海軍工廠大くうしゅうがはじまり、よっつの爆撃団はみっつの編隊をくみ合計3,256発もの500ポンド爆弾を10時39分までの26分のあいだに投下しました。このくうしゅうの計画で予想されたにほん軍戦闘機による攻撃はなく、大恩寺山の高射砲陣地の攻撃も1機のみ帰還とちゅうの硫黄島付近で墜落させただけで、ほぼ無防備の状態での爆撃でした。
豊川海軍工廠のくうしゅうは、たてもんの構造上直撃弾による攻撃がもっとも有効とされたため、大量の500ポンド爆弾が使用されました。26分間という短時間に3,256発もの爆弾投下という密度のたかいくうしゅうであったため、言語に絶するはげしいもので、また退避命令のおくれもかさなったため、2,500人以上ものとうといいのちがうばわれ、その数倍にもおよぶひとびとが負傷する事態となりました。とつぜんのくうしゅうでひとびとは必死ににげまわりましたが、工廠の周囲が塀やほりでかこまれ脱出する門がかぎられとったことや、安全であるはずの防空壕が直撃弾にたえれる構造ではないことも被害をおおきくさせました。くびのない遺体、ひきちぎられたてあし、たすけをもとめるひとびとなど、その惨劇の光景はくうしゅう体験者のおおくの手記にしるされており、平和ないまの時代、かつて豊川の地においてこのようなできごとがあったことは想像もできんじゃないないでしょうか。
くうしゅう終了后には負傷者の搬出や遺体のはこびだしがおこなわれました。豊川海軍共済病院は直撃をうけたため国府高等女学校、飯盛山分院、牛久保国民学校、花井寺などが臨時救護所となり、おびただしいひとびとが収容されました。遺体は第二工員養成所の校庭にならべられますが、犠牲者のかずがおおく火葬施設が不足したことや、なつばで遺体の腐敗がすすむことなどから、千両と諏訪に急造した墓地にかり埋葬されました。
(17) くうしゅうによる被害

パネル9=工員寄宿舎
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (14) 工員寄宿舎 1030-1430
豊川海軍工廠では最盛期に5万人以上もの大量のひとびとがはたらいておりましたが、そのおおくが遠隔地の出身など自宅から通勤できんため、かれらをすまわせる寄宿舎が工廠の周囲にもうけられました。
この日課からもわかるように寄宿舎ずまいの工員たちは、工廠での勤務以外でもいきつくまもない生活がくりかえされるまいにちをおくりました。
(14) 工員寄宿舎

パネル10=徴用工、女子挺身隊、動員学徒
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (13) 強制動員 960-1320
豊川海軍工廠では最盛期に5万人以上の工員がはたらいておりましたが、その大半は徴用工、女子挺身隊、動員学徒など強制的に動員されたひとびとでした。
戦局の拡大により軍需産業の生産力工場が急務となったため、国家総動員法にもとづき1939年7月に制定、公布された国民徴用令により、政府は国民を強制的に軍需工場へ動員できることとなりました。
戦局の悪化により労働力不足がさらに深刻になると、1944年9月に政府は朝鮮にも国民徴用令を発動し、炭鉱、工事げんば、軍需工場などに動員をはかりました。
1943年9月21日の国内態勢強化方策の閣議決定により、14才から25才までの未婚、無職、不在学の女子を勤労動員するため、居住地ごとに女子挺身隊が組織されました。当初、政府は家族制度の精神に反するとして消極的で、自主的な組織をたてまえとしておりました。しかし、戦局悪化による軍需産業の労働力不足により、1944年3月には挺身隊制度強化の要綱が決定し、地域、職域、学校別に隊が組織され、さらに1944年8月にはこれらを義務化する女子勤労挺身令がさだめられました。近隣地域のみならず、北陸、甲信越、近畿などからもおおくの女性が豊川海軍工廠に動員されました。
学徒の勤労作業は、1938年6月の「集団的勤労作業運動実施に関する件」により、中等学校以上で夏季休暇の前后などに3日から5日間の集団勤労作業がさだめられたのがはじまりで、1941年8月には学徒勤労動員体制を強化するため、全校組織の学校報国隊が組織されて、軍事的要請にしたがって学徒が労務に年間30日以内動員されることとなりました。(中略)豊川海軍工廠では、約6,000人もの学徒が動員されたといわれております。
(13) 強制動員

パネル11=工廠ではたらいたひとびと
2017.8.30 豊川海軍工廠展 (12) 工廠ではたらいたひとびと 930-1290
資料にもとづいて従業員数をあきらかにするのはむずかしいですが、おおよそ最盛期には5万人以上のひとびとがはたらいとったと推定されます。
(12) 工廠ではたらいたひとびと

工廠の概要

2017.8.30 豊川海軍工廠展 (21) 工廠の概要 1900-1060
豊川海軍工廠は、兵器の大量生産をおこなうため1939年に建設されました。
工廠は工場部分だけで186ヘクタール、共済病院、寄宿舎、試射場などの付属施設をふくめると300ヘクタールにもおよぶ広大なしきちに最新鋭の機械設備を導入し、当時東洋一とうたわれました。ここでは、工員、徴用工、動員学徒など56,000人をこえるひとびとが、機銃をはじめ弾丸、双眼鏡、射撃装置などの生産に従事しておりました。
そして、1945年8月なのかアメリカ軍の爆撃によって、おおくのひとびとがなくなるとともに工場も壊滅状態となりました。
(21) 工廠の概要

爆弾の破片をもってみてください

爆弾の破片が展示してある。ずっちりとおもたい。あつみもあって、われくちもするどくとがっとる。こんなもんが手裏剣みたいにぴゅんぴゅんとんでくるだ。

2017.8.30 豊川海軍工廠展 (22) 爆弾の破片 1080-1920 2017.8.30 豊川海軍工廠展 (22-1) 爆弾の破片 730-360
てにもつと、ちいさいわりには、ずっしりともちおもりがします。破片のわれぐちは、はもののようにするどく、われぐちをさわるとけがをしてしまいそうです(あぶないですから、われぐちには注意してください)。
こんなにもおもたくてするどい破片が、みえんぐらいはやい速度でとんでくることをおもうと、爆弾のこわさがわかります。
(22) 爆弾の破片(22-1) かくだい

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(さんこう)