遺跡の 説明会が あるって いうで、電車と バスを のりついで 目的地に むかった。
東岡崎で 電車を おり、足助 (あすけ) いきの バスに のる。北上し 国道 248号線に はいって 東名 高速 道路を くぐった ところで、仁木 (にっき)の バス停で おりる。おりたのは おれ ひとりだ。バス停は きりとおしの ような ところに あって、りょうがわには なんにも ない。おまけに 反対 がわの ひがし 方向に いかにゃ いかんのに、中央 分離帯が あって いけん。
ぼうぜんと しとる ところに、こえが きこえる。
みまわすと、みちの 反対 がわに ひとが おって、見学者かと きくので うなずく。ちょっと みなみに いった ところで 国道 248号線を にしがわに おりると、国道 248号線の したを くぐって 東名 高速 道路の きたがわに そって ひがしの ほうに いけると いう。
ちょっとずつ のぼりざかに なる みちには、途中に なんにんもの 案内人が たっとる。公共 交通 機関で こいって いったからには、ちゃんと バス停から 目的地まで 案内して あげるって わけだ。
あるく こと しばし。ちゃばたけが あらわれ、その むこうに テントが あるのが わかる。じもと 説明会が おこなわれる 車塚 (くるまづか) 遺跡だ。
ついて みると、そこは 東名 高速 道路 岩津バス停 (いわづばすてい)の すぐ よこだ。仁木バス停で おりたのは ひとりだけだったで、見学者なんか ちょこっとしか おやへんじゃ ないかって おもっただけど、どう いう わけか すでに 会場は ひとで いっぱいだった。おおかたの ひとは この へんの 地理を しっとって、どっかに クルマを とめて きた みたいだ。
遺物 展示の テントの なかも ひとが いっぱいで、見学者 同士で 「あけまして おめでとうございます」の こえも きこえ、こう いった 考古学の イベントにも 常連さんが おるだなって 感心する。
まんだ 説明会まで まが ある みたいだで、みんなと おんなじ ように さきに 遺跡を みて まわる。その あいだにも どんどん ひとは ふえる。
10時に なって 愛知県 埋蔵 文化財 センター長の あいさつから 説明会が はじまった。古代に ひたって ほしいとの こと。ひきつづき、長野県 知事を やっとった 田中康夫氏に ふうぼうの にた、調査 研究 主事の 鈴木恵介氏から 車塚 遺跡に ついての 全体 説明が なされる。やっぱり 予定外の おお 人数だげな。
〔鈴木恵介氏の 全体 説明〕
- 古墳が 8基 あるけど、7世紀 後半に 築造された ものだ。
- 古墳には 便宜的に 1号墳から 8号墳の 番号を ふっとるだけど、かりの 番号だで あとで かわるかも しれん。
- どれが いちばん ふるいか わからんだけど、1、6、7、8号墳の どれかが いちばん ふるい。
全体 説明が おわって、見学者は おもいおもいに 遺跡の なかを あるいて まわる。
せばい ばしょに 8基もの 古墳の あとが あるだけど、どれも 墳丘は けずられちゃっとって ない。あるのは 遺体の おさめられた 石室の したの ほうの 部分だけだ。あとで ここから あるいて 5分 ほど みなみに ある、岩津 1号墳の 石室の なかに はいって みるだけど、車塚 遺跡で いちばん おおきい 7号墳の 石室でも、岩津 1号墳の 石室よりも だいぶ ちいさい。
石室の おおきさに ずいぶんと ちがいが あるで、おとな用と こども用との ちがい みたいな ものが あったのかと たずねたら、ほじゃ なくて ぜんぶ おとな用の もので、石室の 大小の ちがいは みぶんの ちがいに よる もんだげな。
車塚 遺跡は つい 2、3年 まえまでは ちゃばたけだったそうで、ちゃばたけを ほったら 石室の したの ほうが でて きたって いう ことだった。なるほど、みなみ 斜面に なっとって あったかだ。
ここで 疑問を 鈴木恵介氏に ぶつけて みた。
- (とい)
- 古墳ってのは 大和 政権の 誕生と ともに なくなった もんだと おもっとっただけど、この 車塚 遺跡の ものは それより あとの 7世紀 後半に できただけど、なんでか。
- (こたえ)
- 大和 政権も 地方に たいしては、古墳を つくらん ようにとの おふれも だした みたいだけど、やっぱり 地方は 古墳を つくりたがったので、どうしてもって いう ものには 許可を だした。
- (とい)
- 古墳ってのは ふつう、むきが ばらばらで、360度 どっちむきも ある。ところが、この 車塚 古墳は ぜんぶ みなみむきなのは なんでか。
- (こたえ)
- 仏教 思想が はいってからは、その えいきょうで 古墳も みなみむきに なったと おもわれる。ほかの とこでは、西方 浄土って ことで、にしむきに なった ものも ある。
車塚 遺跡の 見学を おえ、岩津 1号墳まで あるく。
車塚 遺跡の ある 斜面が みなみに おりきる 直前に あるのが 岩津 1号墳で、できたのは 車塚 遺跡の 古墳よりも 1世紀 はやい 6世紀 後半だ。住宅街の どまんなかに あるだけど、墳丘が まるまる のこっとるのが うれしい。車塚 遺跡 じもと 説明会の 開催に あわせて、岡崎市の 教育 委員会の 好意で、いつもは 封鎖して ある 石室の なかに はいらせて くれるだ。
順番 まち して、みなみがわに ある いりぐちから 石室の なかに はいる。
いりぐちこそ こしを かがめて はいらにゃ いかんけど、なかは ひろびろだ。わがやの おはかと くらべても なん百倍、なん千倍 以上の おおきさだ。って いうか、くらべるも おろかだ。そら この はかに ほうむられた ひとが 権力者じゃ なかった わけが ない
そとに でて 説明板を よむと、「装飾 須恵器、玉類、金環、かがみ、馬具など 100点の 副葬品が あって、愛知県の 指定 文化財に なっとる。古墳 時代 後期、6世紀 後半に 築造されただけど 7世紀 初頭まで 追葬が されとった」と ある。
頂上から 西南 方向に 矢作川を ながめ、古代 権力者の きぶんを あじわい、かえりの バス停に むかった。
(さんこう)