2020年2月13日、あんじょう市民ギャラリーに、加藤博さんの『綾姫さま』や八島正明さんの『たもをもつ少女のおる風景』なんかの作品をみてきた。
加藤博さん『綾姫さま』
綾姫さま
碧海のむかしばなし【25】
文:田中みのる
え:加藤博
写真:荒川長雄綾姫さまは、ほれはきのどくなおかただった。うまれこそ、みやこの高貴ないえがらで、なに不自由なくそだてられてきた。15才になられたとき、まつりごとをつかさどるたかいくらいの貴族がいれかわり、いままでの貴族はみやこからおわれることになった。ほうしたなかに、綾姫さまの一族もはいっとった。
綾姫さまをのせたこぶねは、おおきなふねにおきへおきへとひっぱられ、瀬戸内のうみのながれのはやいところまでくると、つながれとったなわをきられてしまった。こぶねはなみにもまれながらひろいおおきなうみにながされ、陸からとおくはなれてしまった。家族とはなればなれになって、ほれはかなしいことだった。ほれでも綾姫さまをそだててくれたうばとおつきのものが3人いっしょにふねにのせられたので、ほれだけがすくいだった。
こぶねはなんにちもただよい、やがておだやかなうみにはいることができた。三河のうみべの萱口(すがぐち)というむらについた。むらびとは、たいそうてあつくもてなした。この土地は、むかしからみやこの皇族との関係があって、いくつもの古墳のならぶところだった。だから綾姫さまは、うばやおつきのものたちと、安心してせわになることができた。このときの綾姫さまは、いつものきぬのきもんではなく、そまつなあさのころもやかぶりものをみにつけとった。
「これはこれは、たいそうなんぎをなされたことでしょう」。
このむらのおさが、むらびとをしたがえてでむかえた。
「わたくしは、この萱口をあずかる小川伝太郎ともうすものです。ご安心ください。このむらで綾姫さまをおまもりいたしますから」。
むらのおさは、さっそくむらびとたちに命じて、かりのすまいをつくらせた。ほいで、ひるもよるもなんにんかのむらびとが交代で、おまもりするひがつづいた。
綾姫さまは、ようやくむらのくらしにもなれて、おせわになったひとびとに、お礼をもうされた。しばらくして、みやこに綾姫さまのことがしらされると、警護のもんや御殿をつくる費用までとどいた。50間四方の土塁をめぐらせた土地のなかに、りっぱな御殿はつくられた。
むらのおさは、このむらのなを「姫郷小川村」とかえることにした。
(あんじょうし姫小川町)
姫小川古墳 このあたりはいくつかの古墳が、南北につらなっとる。姫塚古墳、姫小川古墳、獅子塚古墳とならんどる。姫塚古墳の頂上部には、はかいしの一部らしき五輪塔がのこされ、「白鳳3年」ときざまれとる。姫小川古墳は前方后円墳で、洪積台地のはしにきずかれとる。
皇女綾姫がすむようになって「萱口」とよばれとったが、この土地をひらいた小川伝太郎のなをあわせて「姫郷小川村」と改名したとの伝承がある(三州姫之郷御地名鏡、姫小川村地誌)。
現在は古墳頂上部には、浅間神社がたち前方部頂上部には、薬師堂がまつられとる。
加藤博さん『浄瑠璃姫』
加藤博さん『ビーナスの誕生』
八島正明さん『たもをもつ少女のおる風景』
いちらん
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(さんこう)
- 『たもをもつ少女のおる風景』 - あきひこゆめてつどう|2020/02/13
- しろめぐりで東端城と小川城、姫小川城をみてきた - 2020年1月にじゅうよっか - あきひこゆめてつどう|2020/02/03 > 姫小川城(ひめおがわじょう)
- さいごにおとずれたのが姫小川城。えっ、姫小川って桜井のまちのなかのひとつの地区なのに、ほんなとこにしろがあったのか!ってかんじだ。
- しろあとは誓願寺(せいがんじ)のうらがわにあって、みなみがわの土塁だけが境内のなかにくいこんでいまものこっとる。1400年代終盤にこの地にやってきた内藤氏により築造。内藤氏はのちに東京の内藤新宿になをのこす。
- 誓願寺の由緒も興味ぶかい。649年、孝徳天皇皇女綾姫が姫小川に漂着してすむ。みやこでみぶんを剥奪されたひめさまが、ここまでおちのびてきただ。むらのなまえも萱口里(かやぐちのさと)から姫郷小川村(ひめごうおがわむら)にかえられる。ひめさまの警護役のひともここにすみつく。都築、野村、ながと、かわいの4姓のひとで、いまも姫小川は都築さん、野村さんだらけだ。綾姫がなくなって、ほの菩提をとむらったひとが誓願寺を創立したってつたえられる。1468年、天台宗から浄土真宗のてらにかわる。39代義鳳が1871年の大浜騒動で真宗護持のため法難にあう。