あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほどいいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、かんしんしたことなんかをかいていくよ

綾姫さまとたもをもつ少女 - 2020年2月13日

2020年2月13日、あんじょう市民ギャラリーに、加藤博さんの『綾姫さま』や八島正明さんの『たもをもつ少女のおる風景』なんかの作品をみてきた。

加藤博さん『綾姫さま』

2020.2.13 (1-1) 『綾姫さま』 1840-1300

綾姫さま

碧海のむかしばなし【25】

文:田中みのる
え:加藤博
写真:荒川長雄

綾姫さまは、ほれはきのどくなおかただった。うまれこそ、みやこの高貴ないえがらで、なに不自由なくそだてられてきた。15才になられたとき、まつりごとをつかさどるたかいくらいの貴族がいれかわり、いままでの貴族はみやこからおわれることになった。ほうしたなかに、綾姫さまの一族もはいっとった。

綾姫さまをのせたこぶねは、おおきなふねにおきへおきへとひっぱられ、瀬戸内のうみのながれのはやいところまでくると、つながれとったなわをきられてしまった。こぶねはなみにもまれながらひろいおおきなうみにながされ、陸からとおくはなれてしまった。家族とはなればなれになって、ほれはかなしいことだった。ほれでも綾姫さまをそだててくれたうばとおつきのものが3人いっしょにふねにのせられたので、ほれだけがすくいだった。

こぶねはなんにちもただよい、やがておだやかなうみにはいることができた。三河のうみべの萱口(すがぐち)というむらについた。むらびとは、たいそうてあつくもてなした。この土地は、むかしからみやこの皇族との関係があって、いくつもの古墳のならぶところだった。だから綾姫さまは、うばやおつきのものたちと、安心してせわになることができた。このときの綾姫さまは、いつものきぬのきもんではなく、そまつなあさのころもやかぶりものをみにつけとった。

2020.2.13 (2-1) 加藤博さん『綾姫さま』 1150-820

「これはこれは、たいそうなんぎをなされたことでしょう」。

このむらのおさが、むらびとをしたがえてでむかえた。

「わたくしは、この萱口をあずかる小川伝太郎ともうすものです。ご安心ください。このむらで綾姫さまをおまもりいたしますから」。

むらのおさは、さっそくむらびとたちに命じて、かりのすまいをつくらせた。ほいで、ひるもよるもなんにんかのむらびとが交代で、おまもりするひがつづいた。

綾姫さまは、ようやくむらのくらしにもなれて、おせわになったひとびとに、お礼をもうされた。しばらくして、みやこに綾姫さまのことがしらされると、警護のもんや御殿をつくる費用までとどいた。50間四方の土塁をめぐらせた土地のなかに、りっぱな御殿はつくられた。

むらのおさは、このむらのなを「姫郷小川村」とかえることにした。

(あんじょうし姫小川町)

姫小川古墳

このあたりはいくつかの古墳が、南北につらなっとる。姫塚古墳、姫小川古墳、獅子塚古墳とならんどる。姫塚古墳の頂上部には、はかいしの一部らしき五輪塔がのこされ、「白鳳3年」ときざまれとる。姫小川古墳は前方后円墳で、洪積台地のはしにきずかれとる。

皇女綾姫がすむようになって「萱口」とよばれとったが、この土地をひらいた小川伝太郎のなをあわせて「姫郷小川村」と改名したとの伝承がある(三州姫之郷御地名鏡、姫小川村地誌)。

現在は古墳頂上部には、浅間神社がたち前方部頂上部には、薬師堂がまつられとる。

加藤博さん『浄瑠璃姫』

2020.2.13 (4-1) 加藤博さん『浄瑠璃姫』 720-370

加藤博さん『ビーナスの誕生』

2020.2.13 (3-1) 加藤博さん『ビーナスの誕生』 1000-1190

八島正明さん『たもをもつ少女のおる風景』

2020.2.13 (5) 八島正明さん『たもをもつ少女のおる風景』 1570-1080

いちらん

2020.2.13 (1) 『綾姫さま』 2040-1540 2020.2.13 (2) 加藤博さん『綾姫さま』 1520-1210
2020.2.13 (4) 加藤博さん『浄瑠璃姫』 1190-930 2020.2.13 (3) 加藤博さん『ビーナスの誕生』 1110-1270
2020.2.13 (5-1) 八島正明さん『たもをもつ少女のおる風景』 1340-940 2020.2.13 (5-2) 八島正明さん『たもをもつ少女のおる風景』 460-850

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(さんこう)