2016年12月23日、竜潭寺(りょうたんじ)にいってきた。
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井伊谷宮(いいのやぐう)をおくにぬけて、みぎてに宗良親王(むねながしんのう)のおはかをみながらひだりにいくと、ほのまま竜潭寺となる。うらからはいるかたちだ。さいしょにみえた井伊家霊屋と開山堂。井伊谷宮ですばらしい建築をいっぱいみたばっかりなのに、また、いきをのむような風格の建築があらわれるとは。
開山堂をすぎたとこからひだりにまわりこんで、稲荷堂。つりがねがたのまどがおもしろい。
つづいて、本堂。
ふりかえって、まあいっかい開山堂をあおぎみる。
正面までいって、まあいっかい本堂。
おくりのへんまでいったとこで、このひの拝観休止をしる。おおそうじのひだった。あの有名な小堀遠州のにわをみることはできんかったけど、これまでにみたすばらしい建築でまあはいむねはいっぱいだった。
華美にすぎることのない、おちついた仁王門。
ちょっとよこにいったとこに、井伊直政(いいなおまさ)の由緒がきあり。
徳川四天王=井伊直政
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、1561年2月ここのか、井伊の庄祝田(ほうだ)で、名門井伊氏の嫡男としてうまれました。2才のときにちち直親(なおちか)が今川氏真(いまがわうじざね)のてによりころされ、井伊家は滅亡の危機にたちます。8才のとき、直政は竜潭寺南渓和尚(なんけいおしょう)のはからいで、三河鳳来寺(ほうらいじ)にあずけられ成長します。
15才になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となりかずかずの武勲をたてます。1582年、武田勝頼(たけだかつより)をせめほろぼした家康は旧武田軍の『あかぞなえ』の軍を直政につけます。1584年、小牧長久手のたたかいで、このあかぞなえ舞台がかつやくし、井伊のあかおにとおそれられました。この功で直政は6万石に出世、井伊家再興をはたしました。
1600年、関ヶ原合戦では東軍の軍監(ぐんかん)をつとめ徳川軍を勝利にみちびき、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
1602年2月ついたち、直政は42才の生涯をとじました。
(8) 井伊直正 - 由緒
うーん、井伊直政が鳳来寺にあずけられとるあいだの井伊谷をあずかっとったのが、おんな城主井伊直虎なだな。らいねん2017年1月ようかから大河ドラマ『おんな城主直虎』がはじまる。
まわりのきぎにとけこんだような山門をでて、見学をおえる。
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(さんこう)
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- 竜潭寺境内図