2016年12月23日、井伊谷宮(いいのやぐう)にいってきた。
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とりいをくぐったとこで、ちょうず。えの説明にしたがって、てとくちをあらいきよめる。
(1) ちょうずの作法、(2) ちょうずば、(3) ちょうずや
正門の左右に、うたがある。井伊谷宮のご祭神、宗良(むねなが)親王はうたの名手だったみたいだ。
宗良親王おんうた
「いつわりのことのはにのみききなれて ひとのまことぞなきよなりける」 - 李花集
「わがよわいともにかたぶくつきなれば みをかくすべきやまのはもなし」 - 李花集
(6) 宗良親王のうた「いつわりの」、(5) 宗良親王のうた「わがよわい」
「いつわりの」の解説
親王は南朝のためなんかいとなくたたかいのにわをはせめぐりました。いくさに9分かってもさいごには敗戦をみることがおおかったのでした。なぜかといえば、いつもひとのこころの変化によるところがおおかったのです。「きのうの敵はいまのとも」の時代です。精神的なつどいよりは経済的ななかまのほうがおおいよのなかでした。きょうもだまされたあすもうらぎられたというよのなかでは、さぞかしくちおしかったのでしょう。
虚言令色ではひとのこころをさびしくさせるものです。まごころこめた交際のできるひとはすくないでしょう。
しかしこの和歌は、わたしたちに600年もむかしにつくられたものとはかんじさせません。現代の和歌かとおもわれるような斬新さがうかがえます。
ひとのこころは年代ではないとおもいませんか。
「わがよわい」の解説
じぶんのとしはだんだん老境にはいり、人生の峠はこしたとおもわれるこのごろである。ふとあかつきがたににしにかたむいたつきをみれば、もうやまにかかっているが、おつきさんよ、わたしもおまえもおなじようにとうげはこした、おたがいさまだなあ、しかしおつきさんよ、あなたはしごとをおえればしばしの休息をもつやまがあるが、わたしなどは一生ひとつのしごとに全身全霊をうちこんで、わきめもふらずにはたらいてきたが、いま老境にはいってもあなたのようにみをかくすところもないありさまである。
このような親王のきもちをおしはかってください。なんのためにだれのために親王ははたらいたのでしょうか。
こんにち、わたしどもが平和な生活をおくれるかげには、このようなひとびとのはたらきがあったことをわすれないでほしいとおもいます。
(7) 宗良親王のうた「いつわりの」解説、(8) 宗良親王のうた「わがよわい」解説
正門をくぐって拝殿におまいり。
拝殿のよこに井伊谷宮の由緒がきがある。南朝のみこが、はるか遠江(とおとうみ)のこの地でかつやくしただ。創建は時代がくだって明治になってからの1872年のこと。
井伊谷宮由緒
ご祭神宗良親王(后醍醐天皇第4皇子・宮内庁しらべ)はいまよりおよそ650年まえの南北朝時代に一品中務卿征東将軍として、この地を本拠に50余年のあいだ、吉野朝のためにごかつやくになられました。
ほのあいだ遠江、駿河、三河、甲斐、信濃、越後、上野、美濃などに軍をすすめられ、信濃宮、越中宮と尊称され、晩年ふたたびこの地をたずねられ1385年(元中(げんちゅう)2年)8月とおか、おんとし73才にて薨去(こうきょ)せられました。おはかは本殿背后ににしにむかってたてられており宮内庁所管地であります。
1868年、明治天皇より当宮創立の勅旨が仰出され、1872年2月12日、ご鎮座、1873年6月ここのか、勅裁をもって官幣中社に列せられました。親王は武のみならず和歌にひいで、ほの苦難なご生涯のなかであっても歌集「李花集」をのこされ、また、準勅選和歌集「新葉和歌集」の編さんなど文化の面でもご功績をのこされました。
親王のどんな逆境におちいっても不撓不屈(ふとうふくつ)初志をつらぬき、希望をすてずひたすら正義のために一生をささげられたご精神、ご遺徳はおおくのひとたちにしたわれ、学問、心願成就、開運のかみと信仰されとうとばれております。
例祭び=9月22日
(10) 由緒
拝殿からみぎおくにそっけない資料館があって、はいってみる。静岡県引佐郡井伊谷村(いなさぐんいいのやむら)時代の古地図がある。城山ってのが井伊直虎の井伊谷城で、ほの東南にかぎのてにまちがあるのがわかる。この井伊谷宮はまちからはずれて西南方向、神宮寺川をわたったとこにある。
静岡県引佐郡井伊谷村
この資料は大正年間の井伊谷村(いいのやむら)のものですけど当時の井伊谷宮のすがたがみられます。提供者:北岡=山下定一どの
(11) 静岡県引佐郡井伊谷村の古地図、(12) 解説、(11)-1 中心部
宗良親王ご真筆ってのがある。えらい貴重なもんだけど、よめんのがかなしい。
宗良親王ご真筆(引佐町文化財)
古今和歌集所載和歌3首
「おくやまのみねとびこゆるはつかりのはつかにだにもみてややみなむ」亭子院(ていじのいん)おんうた
「おほぞらをわたるかすがのかげなればよそにのみしてのどけかるらむ」
「正月あめふりかぜふきけるひおんなにつかわしける」謙徳公(けんとくこう)
「はるかぜのふくにもまさるなみだかなわれもみなもともこうりとくらし」
当宮ご創建当初、福羽美静(ふくばびせい)大人発起人となり全国にご宝物奉献運動がすすめられたおり、現尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)宮司田島仲康氏祖父が奉納され、明治天皇照憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の内覧をたまわり、あらためて宮中よりご下賜になったご真蹟であります。全国ゆいつの貴重な直筆であります。
(14) 宗良親王ご真筆 - 解説
拝殿をひだりてにまわってみる。
おくの本殿がみえる。
まわりこんで全体をみる。ちぎ(千木)、かつおぎ(鰹木)のりっぱなこと。ちぎはそとそぎ。
ほのままそとにぬけたとこに、宗良親王のおはかがある。宮内庁のたてふだがあって、たちいるべからずと。ひだりにすすんで、となりの竜潭寺(りょうたんじ)にいく。
后醍醐天皇皇子宗良親王墓
一、みだりに域内にたちいらぬこと
一、魚鳥などをとらぬこと
一、竹木などをきらぬこと
宮内庁
(20) 宗良親王墓
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(さんこう)