安城町長となった岡田菊次郎が愛知県立農林学校を安城に誘致したことはぜんかいかいた。ほの愛知県立農林学校の初代校長がきょうとりあげる山崎延吉(やまざきえんきち)だ。なまえのよみかたは「えんきち」のほかにも説があるらしいけど、よびならわしてきたこのよみかたでいく。
いまは愛知県立安城農林高校と「安城」がはいるなまえになっとるこの学校だけど、以前は「安城」がはいってないことにまずきづくだらあ。「いくつのまちにある農林学校のうちの安城にあったやつ」じゃなくて、「安城にあったのが愛知県ゆいつの農林学校だった」だ。ヰキペディアでみると「戦前は新潟県の加茂農学校、静岡県の中泉農学校とともに三大農学校ってよばれ、全国から生徒をあつめとった」ってかいてある。ふむふむ、ほんな全国三大農学校のひとつが安城にあっただ。
愛知県立農林学校の開校は1900年。まんだ明治用水ができて10年ぐらいしかたっとらんころで、農都安城のかたちはない。ほんな時代にこの学校を誘致した岡田菊次郎のえらさをあらためておもう。
ここに初代校長にばってきされてやってきたのが、東京帝国大学農科大学を卒業してまんだまもない29才の山崎延吉。「ほれから1920年まで20年ちかくにわたり、校長をつとめました。このかん、農村の振興と農民文化の向上のため、校長以外に愛知県農事試験場長や愛知県農務課長など愛知県の農業関連の要職を兼務し、精力的に活動します。延吉の教育方針は、『学校』っていうわくにとらわれんことでした。たとえば、農村の青年に夜学をひらいたり、校外への講演にひんぱんにでかけたりしました。」っていうかつやくをする。こうして山崎延吉の指導をうけたひとたちにより、安城が農業のさかんな地域に発展していっただ。1920年代から1930年代にかけて、安城は「にほんのデンマーク」っていわれるほどになった。うん、農都安城ができるまでには、たくさんの偉人がかかわっとるだ。
◇ 以下、広報あんじょうから ◇
安城の偉人3.山崎延吉 - 広報あんじょう 2014.8.15号
愛知県立農林学校初代校長 - にほんのデンマークの土台を構築
- 山崎延吉は、愛知県立農林学校(いまの愛知県散る安城農林高校)の初代校長で、「にほんのデンマーク」のいしずえをきずいた人物としてしられております。
- 延吉は、1873年に石川県の士族のいえにうまれました。こどものころの生活はまずしく、からだのよわい、うちきな少年でした。
- 第四高等学校(いまの金沢大学)に進学した延吉は、むくちな性格もあり、もくもくとできるしごとがいいってかんがえ、農業をまなぶことにしました。卒業のあとは、東京帝国大学農科大学(いまの東京大学農学部)へ進学。25才のとき、農科大学の学長から、福島県立蚕業(さんぎょう)学校で教師になるよう依頼されました。さいしょは教壇にたつことをちゅうちょしますけど、赴任してからは教育者としてのみちにめざめ、一生のしごととする決心をしました。
- ほのあと、大阪府立農学校への転任をへて、1901年に29才のわかさで愛知県立農林学校の初代校長にばってきされます。ほれから1920年まで20年ちかくにわたり、校長をつとめました。
- このかん、農村の振興と農民文化の向上のため、校長以外に愛知県農事試験場長や愛知県農務課長など愛知県の農業関連の要職を兼務し、精力的に活動します。延吉の教育方針は、「学校」っていうわくにとらわれんことでした。たとえば、農村の青年に夜学をひらいたり、校外への講演にひんぱんにでかけたりしました。
- こうして延吉は、農村への教育と合理的な農業の普及に成功し、延吉の指導をうけたひとたちにより、安城は「にほんのデンマーク」ってよばれるほど農業のさかんな地域へと発展していきました。
- 1920年に校長などの公職をしりぞいてからも、ますます旺盛に活動しました。商工業の発展にとりのこされた農村をすくうため、にほん国内はもとより朝鮮や台湾にまででむいております。
- こうした功績から、延吉は晩年においても、「農民のちち」、「農聖(のうせい)」としてしたわれました。
(さんこう)