壱岐・原の辻遺跡の船着き場、特別な施設?
長崎県教委は12日、壱岐市芦辺町の原の辻(はるのつじ)遺跡(国特別史跡)で、東アジア最古とされる弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)の船着き場跡の西側に、環濠(かんごう)の一部とみられる濠(ほり)が新たに見つかった、と発表した。船着き場を防御する一方、特別な場として、周辺部と区画する役割を担っていた可能性も高いとみられる。
遺跡は、魏志倭人伝に登場する「一支国」の王都とされ、これまでに、船着き場の突堤や、人工水路などが見つかっていた。
今年度の調査で見つかった濠は、中州状の船着き場跡の西約35メートルにあり、幅約2・5メートル、深さ約0・8メートル。濠は、船着き場と一緒に整備された施設と推測される。東側はまだ調査していない。
また、船着き場跡の二つの突堤が、いずれも長さ約15メートルあったことも判明、船着き場の規模が明らかになった。どちらも石積みで護岸されていた。川船を係留するにしては大がかりな構えとなっており、荷物の積み下ろしだけでなく、船着き場がクニの使節を迎え入れるなど、特別な場として築かれた可能性も出てきたという。
原の辻遺跡調査指導委員会委員長の西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「船着き場跡の全体像をつかめるところまできた。石積みの船着き場はほかに例がなく、東アジア全体にとっても重要な成果と言っても過言ではない」と話している。
YOMIURI ONLINE より
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壱岐 原の辻遺跡が 東アジア 最古の 船着き場跡だ、ってのが すごい。
壱岐島は 九州北沖に あり、以北 対馬 朝鮮半島と つづく。紀元前 2 世紀 ごろには 王都を 有する 一国を なしとった わけで、文明交流の 要衝の 位置に あったんだろうね。
石積みの 船着き場は 東アジアで ほかに 例が ないそうだ。まだ、調査されて ない ところも あるそうで、はやく 全貌が あきらかに なるのが たのしみだ。
魏志倭人伝って、意外に短い文章で、日本語版がネットにあって、読みやすくて、わかりやすかった。
壱岐 原の辻遺跡のことびっくりです。
私も「一支国」の末えいかもしれません???。
魏志倭人伝の サイト おしえて くれて ありがとう! けっこう みじかいんだね。で、日本語訳して あるんで わかりやすいし・・・。
「安本美典著『最新邪馬台国への道』より引用」と かいて あるけど、安本美典氏は 考古学に 統計的手法を 導入した ひとで、氏の 説は 説得力が あると おもう。
で、魏志倭人伝では、朝鮮半島から 九州までを つぎの ように しるしとる。
(0) 狗邪韓国(現在の 金海(キメ)付近)
<ここから 朝鮮半島を はなれる>
(1) 対馬国
まえの 地点からの 距離=海を わたって 千余里
方(域)=四百余里
(2) 一支国 (壱岐国の こと)
まえの 地点からの 距離=海をわたること千余里
方(域)=三百里
(3) 末盧国(肥前の国、松浦郷)
<九州側の 到着地点>
まえの 地点からの 距離=一海をわたる。千余里
これを よむと、距離や 面積は ちょっと 精密じゃあ なさそうだね。まえの 地点からの 距離が すべて 「千余里」に なっとるのは 実際の 距離に 比例しとらんし、対馬と 壱岐の 面積比が 四百余里四方 対 三百里四方と いうのも、実際には もっと 大小に 格差が ある。
こんな ふうなので、やっぱり この 書物だけじゃあ 邪馬台国 (ヤマタイコク=やまとのくに)の 位置を 確定させるのは、ちょっと 無理が あるのかな。
あっはっは、卑弥呼が 使者を おくった 魏の 王様は イケメンだったんだ。たのしい 授業で、こどもたちの あたまにも よく はいって いきそうだね (^_^)。
「対馬の現在」を みて みると・・・。対馬には 釜山との 定期航路が あって、韓国からの 観光客が 年々増加しとるんだ。それから、日本に 帰化した プサン出身の おんなの ひとが、そう いった 観光客の 通訳なんかの おてつだいも しとるんだ。
こう やって 日韓交流が ふかまって いく ことは、ほんとに うれしい ことだね (^_^)。
オオーッ! 原の辻 (はるのつじ)遺跡の 発掘調査の お手伝いを なさって いた ことまで あるとは・・・。やっぱり 一支国の 末えいに ちがいない (^_^;)。
でも そんときは そんなに 有名な 遺跡じゃあ なかったんですか。発掘調査が まだ 不十分だったんでしょうね。
調査が すすんで、日韓の 重要な 交易中継所だと いう ことが わかったんですね。