2020年10月ようか、とんかつのツヅキでひるごはん。たのんだのはかつどん。これ、はじめてたのんだだけど、けっこううまかったよ。
(さんこう)
2020年10月ようか、とんかつのツヅキでひるごはん。たのんだのはかつどん。これ、はじめてたのんだだけど、けっこううまかったよ。
(さんこう)
ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん)2回めの記事。いたるところに散乱する遺骨を収集。沖縄本島南端に「魂魄の塔(こんぱくのとう)」をつくる。
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(あんじょうホームニュース - 2012年10月27日) 1945年4月、アメリカ軍の沖縄本島上陸がはじまると、田原惟信ら島民は戦火におわれて、あるものはきたへ、おなじときにあるものはみなみへむかってにげまどいました。 防空壕の落盤事故にあったり、「摩文仁(まぶに)(※ いまは糸満市の一部)では、かくれとるきびばたけに火炎放射をあびせられ、いのちからがら海岸へおちのびた。食物といえば、はたけのわきにころがっとるめのでたいも、やきこげたきびをかじっとった。体力はなく、気力だけがささえだった。ふろしきにつつみ、せおっとるたった1個の徳用マッチのおもみにたえられず、すてさったのも摩文仁の海岸である」とかれ自身がしるしております。 にげまわったすえの捕虜収容所では、トーチカづくりの重労働を課せられ、解放后転々としたあと、区役所職員として幼稚園につとめました。そのころ金城和信(きんじょうわしん)(のち摩文仁にできる真和志村(まわしそん)(※ いまは那覇市の一部)の村長に就任)にめぐりあって、かたりあううちに意気投合して、遺骨収集事業にとりくむことになったのでした。 収骨活動のはじめごろは、まだ頭髪や皮膚が付着したままの遺骨が散乱しとったといいます。収容された島民には自由はなく、占領軍は死者をとむらい遺骨を収集することさえ禁止しとって、田原惟信は「ゆくてをMP(※ 憲兵)にはばまれまわりみちをしたり、MPにみつかってにげかえったこともある」としるしております。 収容されたむらの村長金城和信がアメリカ軍へかけあって遺骨収集の許可がおりたのは1946年2月下旬でした。村民はさっそく収骨にかかりました。ひろわれた遺骨は米須原(※ 米須(こめす)は糸満市南部にあるあざ)のみなみにうずたかくつまれました。村長はアメリカ軍へ資材の提供をもうしいれ、鉄筋代用に寝台のわく、それにセメントなどを確保しました。それらと周辺から石灰岩をひろいあつめてつみあげ、骨塚をつくりました。この慰霊碑は「魂魄の塔(こんぱくのとう)」となづけられました。「魂」は精神をつかさどるたましい、「魄」は肉体をつかさどるたましいで、あわせて死者のたましいのことです。 「魂魄の塔」には3万5千体が納骨されました。これが最初にきずかれた慰霊塔です。 文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕 |
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(さんこう)
わがふるいは浄土真宗願力寺(がんりきじ)の二男としてうまれた田原惟信(たはらゆいしん)。沖縄は真教寺(しんきょうじ)の3代住職になって、沖縄戦でいのちをうしなったひとたちの遺骨収集をして、ひめゆりの塔をたてて、沖縄仏教会の会長をつとめた。ふるいの偉人だ。2012年あんじょうホームニュースに5回にわたって連載された田原惟信の記事を、これから順番に紹介していく。こんかい1回めは「人生を決定した沖縄戦」。
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(あんじょうホームニュース - 2012年10月13日) 沖縄でかがやいた郷土の先人、田原惟信(1909~2008年)を紹介します。 このひとは沖縄の僧になり、刑務所で受刑者のこころのせわをする教誨師(きょうかいし)として、また、平和をもとめる宗教者として献身的な活動をつみかさね、1976年、「裁判所の民事調停委員および家事調停委員」としての活動がみとめられて藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章しました。沖縄ではじめて遺骨収集、供養に着手し、「ひめゆりの塔」の創設者のひとりにもなった人物であります。 1909年あんじょうちょうおおあざふるいの願力寺にうまれました。岡崎中等学校、真宗専門学校(名古屋の現同朋大学)を卒業すると、真宗大谷派の僧としてなだかい暁烏敏(あけがらすはや)(1877~1954年)のすすめで、沖縄県那覇市西町真教寺にはいりました。 太平洋戦争にまきこまれた惟信は、こどもと坊守(ぼうもり)(住職のつま)を故郷の大分県へ疎開させててらをひとりでまもっておりましたが、1944年10月とおかの爆撃でてらをうしない、知人のてらに避難しました。 そこで惟信がみずからの人生を決定づけるできごとがおこりました。うらやまの防空壕から境内にでてきたときのことです。沖縄タイムス社1983年発刊の『私の戦后史』第7集でつぎのようにかいております。 「わたしのめのまえで、砲弾が破裂した。あかいひのたまが四方にちった。一瞬めがくらみ、みみに衝撃をうけ、おとのない世界につきおとされた。てらのいたかべには無数の破片がつきささっとる。ちかくのきにつないであったうまが、一片の肉と化すすさまじさだった。わたしはむきずだった。奇跡としかいいようがない。いのちびろいをした。というよりわたしは『いかされた』とおもうようになった。だれに、なんのために・・・、自問自答をかさねながら戦火をくぐりぬけ、たどりついた結論が、戦没者の収骨供養と教誨、更生保護事業をライフワークとすることであった」(沖縄タイムス連載から)。 文:天野暢保(のぶやす)〔歴史博物館のもと館長で、三河の歴史や考古学の第一人者〕 |
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(さんこう)
伊勢湾岸道をにしえ。湾岸桑名インターでおりて市内にはいる。
六華苑を見学。いけのほとりに防空壕があるのもかくにん。くうしゅうにそなえて、諸戸清六がつくった私設防空壕だ。
七里のわたしのちかくに、歌行灯句碑を発見。
歌行灯句碑(うたあんどんくひ)
かはをそに 火をぬすまれて あけやすき 万
明治の文豪泉鏡花(1873~1939)は大泉原村(※ いまのいなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため1909年11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿、大塚本陣あとち)に宿泊した。このときの印象をもとにして、小説「歌行灯」をかき、翌年1月号の『新小説』に発表した。
1939年、東宝映画から依頼をうけた劇作家久保田万太郎(1889~1963)は船津屋にとまり、3か月ほどで戯曲「歌行灯」をかきあげた。1940年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、1943年に成瀬巳喜男の監督で映画化された。上演、映画化にあたり、万太郎はてなおしのため再度船津屋をたずねとる。
船津屋は当初から格式たかい料理旅館だったが、小説では湊屋とかかれ、裏河岸から「かわうそ」がはいあがってきていたずらをするといううわさばなしが登場する。
俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人のもとめにおうじてほの情景をよんだのがこの句である。
自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもんで1956年6月にたてられた。
2006年6月/寄贈桑名三田会
歌行灯でひるごはん。おれは肉みそなす冷麺膳。
つまは清流歌行灯御膳。ごちそうさまでした。
はらごしらえができたとこで、桑名市博物館を見学。
さいごに九華公園をさんぽ。桑名城のあとを公園にしたもんで、一角に初代藩主本多忠勝像がたっとるのをかくにん。
(さんこう)