あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

おぎゅうじょう

大給城ってかいておぎゅうじょうってよむ。松平の一派が一時期居城にしとっただけど、家康の関東移封にともなって1590年に廃城になっとる。いまは、いしがきっていうか土塁っていうかがのこるだけだ。ちゅうにちの記事にあった「豊田市大内町城下」っていう地名をたよりに、きょういってきた。

20150109_095731 大給城 - ものみいわからのけしき

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ばしょは足助街道(あすけかいどう)ぞい、九久平(くぎゅうだいら)にある。矢作川(やはぎがわ)の支流、巴川(ともえがわ)にそったまちで、豊田市と合併するまえの松平町(まつだいらちょう)の中心地でもある。まっとおくみかわのやまおくにあるのかとおもっとった。

ナビにしたがい、足助街道からみぎにはいる。ちいさなたにがわぞいのみちだ。すすむごとに高度はあがり、みちはばはせばまる。ようこんなとこにひとがすんどるもんだ。このさきすれちがいできません!のたて看板にもひるまずすすむ。しっくいこそはがれおちとるけど、こんなりっぱな土蔵まであるぞ。ついにみちはつき、クルマをおりる。

20150109_092235 大給城した - 土蔵

みちがつきたさきの民家におばあさんを発見。大給城へのみちをたずねたら、うちのうらてに案内してくれて、ここをあがっていくだよっておしえてくれた。

20150109_092937 大給城した - 案内看板

けっきょくここはあがっていけんくて、すごすごとクルマにひきかえす。おばあさんがおしえてくれた、まあひとつの経路でいくことに。クルマでぐるーっとまわって、なんとかいりぐちにたどりつく。ささみちにわけいり、おねづたいにすすむ。ほとんど水平移動でらくなのはいいけど、ひとりぼっちはこころぼそい。

10分ぐらいあるいたか、虎口(こぐち)をとおって、しろあとにはいる。

20150109_095422 大給城 - 虎口(こぐち)
20150109_095617 大給城 - 主郭え

二の丸から本丸へとすすみ、さらにほのおくの「ものみいわ」にのる。
おおーーーっ! 豊田スタジアムからはるか名港トリトンまでみえるぞ!
にほんいちの絶景がこんなとこにあったとは。

20150109_100428 大給城 - ものみいわからのけしき
20150109_095731 大給城 - ものみいわからのけしき

さいしょにはいってきた、たにがわぞいのみちはこんなましたにみえる。ってか、きにかくれてみえん。

20150109_100435 大給城 - ものみいわからのけしき

「大給城址」の説明がき
20150109_100726 大給城 - 説明がき
大給城址は、西方眼下に九久平の集落をみおろす標高204メートルの急峻なやまのうえにきずかれとる。九久平は足助街道と新城街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるっていう交通の要衝であった。
しろの東西には、おねづたいにせめてくる敵の侵入をふせぐためにほりきりA - Bをもうけとる。ひがしがわからの進入路をとおると、門ややぐらなどで防御された虎口(こぐち)Cをもうけ、曲輪2をへて主郭1へといたる。城内のいたるところには花崗岩巨石がみられ、主要な部分はいしがきでかためられとる。Fはものみいわってよばれ、ここからは尾張のくにをはじめとおく鈴鹿のやまやまをのぞむことができる。いわのうえには一辺数センチメートルのあながならんどるけど、いつなんのためにもうけられたかは不明である。D、Eはいしがきを駆使してもうけられた大規模な取水施設である。主郭1からみなみにくだったところにある3は城主のやかたあとってかんがえられる。
このしろは、もと土豪、長坂新左衛門のしろであったけど、岩津に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男の親忠(ちかただ)にあたえた。親忠は細川城とともにこれを次男の乗元(のりもと)にゆずり、乗元が大給松平氏の初代となった。大給松平二代乗正は1510年までにしろの大修築をおこなった。以后、乗勝、親乗、真乗とつづき、1590年、六代家乗のとき徳川家康の関東へのくにがえにともなって上野のくににうつり、大給城は廃城となった。


(さんこう)