ちょうどふたつきまえの2014年3月23日に古井町内会総会があっただけど、ほのあと『三河一向一揆と古井の蜂谷半之丞(はちやはんのじょう)』と題してミニ歴史講座がひらかれた。講師は古井町歴史研究会の天野暢保(あまののぶやす)さん。まえに安城市歴史博物館(あんじょうしれきしはくぶつかん)の館長もつとめられたかただ。以下にほのときのようすを紹介する。
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はじまり、はじまり。
徳川家康の家臣、蜂谷半之丞は古井のでで、いしぶみがいまにのこるだげな。ばしょは願力寺(がんりきじ)だったか。いや、しかし、古井みたいな農村にもさむらいがおったとは。
徳川家康の家臣、蜂谷半之丞は古井のでで、いしぶみがいまにのこる。ばしょは願力寺(がんりきじ)だったか。
『三河国二葉松(みかわのくにふたばのまつ)』ってのが紹介されたけど、なんだかわすれちゃった。いまヰキペディアでみてみると、「江戸時代にあらわされた三河地方の地誌書。三河国下長山村の佐野知尭の編。三河国内の古城、古屋敷、古墳墓について来歴や関係人物を各郡、各村別に注記。また関連する古歌も収載。記述は簡潔ながら江戸時代以前の三河国内の郷土史に必要な情報を提供しとる。成立は1740年(元文5年)あき」ってかいてある。ようはいろんなデータがのっとるってことだ。
『三河国二葉松(みかわのくにふたばのまつ)』
戦国時代の西三河
松平広忠が暗殺されて、今川支配の時代にはいったげな。ほのあと、本証寺(ほんしょうじ)で門徒連判状ができたらしい。このへんから三河一向一揆(みかわいっこういっき)が最高潮にむかっていくのか。ちなみに「本證寺」っていう表記もあるけど、これは「証」の字を旧字でかいただけのものだ。
一揆勃発の根本的原因
説明はつづくも、むずかしすぎてついていけん。
蜂谷半之丞のえがでてくる。一揆を弾圧したがわの徳川家康の家来でありながら、蜂谷半之丞は本証寺、上宮寺とならぶ一向一揆三河三か寺のひとつ、針崎(はりさき)の勝鬘寺(しょうまんじ)にたてこもったらしい。
三河一向一揆は弾圧され、本願寺の浄土真宗も禁止されるけど、なんねんかあとにはゆるされただげな。徳川家康のおばさんだかにあたる、妙春尼ってひとのはたらきかけによるものかもしれんとのこと。禁止されたままじゃなかっただよな。うちも浄土真宗だけど、わが古井をふくむ西三河じゃ圧倒的に浄土真宗がおおいもんな。
町内会長から「まき」がはいって、ミニ歴史講座はおわった。蜂谷半之丞はず~っと古井におったわけじゃなくて、六名(むつな)にうつったっていわれる。やっぱり、先祖代々の百姓じゃないってことだ。むらむらには、ほういう土着じゃない層の人間もすんどったってわけだ。
(さんこう)