あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほどいいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、かんしんしたことなんかをかいていくよ

陸軍 中将が 開戦 直後に 太平洋戦争 批判

普天間基地の 移設が 社会 問題に なっとるけど、沖縄だけに アメリカ軍の 基地の 負担を しいるのは けしからんと いう ような 感情的な 議論だけが なされとる。にほん 全体の 軍事を どう するのか、にほん 全体の 国防の なかに アメリカ軍の 基地が どんな やくわりを はたしとるのか、アメリカ軍が にほんから でて いったら にほんの 国防は どう なるのか、アメリカ軍が 撤退して にほん軍が とって かわると どう なるのか、などと いう ことが しめされとらんので、この 普天間基地 ひとつを どう すると いわれても なんの 判断も できん、って とこだ。


ところで、ちょっと ふるい 記事だけど、去年の 12月 とおかの 中日新聞に 太平洋戦争を 批判した 陸軍 中将の ことが のっとった。12月 ようかの 開戦記念びに ちなんだ 記事だと おもう。



陸軍中将が 開戦 直後に 太平洋戦争 批判
〜部下を まえに 演説〜



太平洋戦争 開戦から まも ない 1941年 12月 末、中国 徐州に 進駐しとった 陸軍 第17師団の 師団長だった 平林盛人 中将が 部下の 将校を あつめ、痛烈に 開戦を 批判する 演説を しとった ことが、もと 部下 ふたりの 証言で あきらかに なった。将校らは 「他言 無用」と もうしあわせ、発言は 表面化せんかったと いう。2009年 12月 ようかで 開戦から 68年。平林の 危惧した とおり、にほんは 戦争の どろぬまに はいりこみ、にほんじんだけで 300万人 以上の いのちが うしなわれた。

平林の 発言を 証言した ひと
もと 副官で 蓮光寺 住職の 平谷典樹さん (94才; 兵庫県 太子町) (起居を ともに する いちばんの 側近だった)
もと 主計将校で 飯野海運 もと 社長の 風早英雄さん (97才; 東京都 目黒区)
平林の 発言 (ふたりの もと 将校の 証言に よる)
〔時期と 状況〕
掃討 作戦などから 徐州の 師団本部に もどって ほどない 1941年 12月 29日の 将校 昼食会の 席。40人ほどの 将校が 出席し、食事を すませると、平林が いつに なく けわしい 表情で はなしはじめた。
〔発言〕
〔戦争の なりゆきを 予言。開戦を はげしい 調子で 批判〕
「現在の にほんの 戦力では、対 アメリカ イギリス軍 あいてに 干戈 (かんか; いくさ)を まじえても、絶対に かてる みこみは ない。真珠湾の 奇襲で ねこみを おそい、戦果を あげたかも しれんけど、1年 たらずで 劣勢に おいこまれ、やがて 敗戦に いたるだら」
「装備 劣勢の にほん軍が 近代戦を たたかえん ことは、さきの (ソ連に 惨敗した) ノモンハン戦で 立証ずみで ある」
「どろぬま化しとる 中国 戦線を 未解決の まま アメリカ イギリス軍を あいてに たたかう 余力は、いまの にほんには ない。まけいくさと わかっとる 戦争は、絶対に やっては ならん」
〔さらに 当時の 東条英機 総理大臣に ついて きびしく 指弾〕
「本来 憲兵司令官を 最後に 予備役に 編入せらるべき 人物で、陸軍大臣、総理大臣の うつわでは ない。この 難局を 処理する 能力など もっとらん」
はなしを きいた ときの 衝撃
〔平谷さん〕
「まけるとは かんがえも して おらず、みんな しゅんと しとった」
〔風早さん〕
「びっくりした。この はなしは なかった ことに しようと、みんなで はなしあった」
平林の その あと
平林は 東条と きが あわんかったと され、約 1年 後、師団長の 任を とかれて 予備役と なった。その あと、長野県 松本市長と なったけど、任期 途中で 再任用され、長野師管区 司令官と して 長野県 松代町 (現長野市)の 地下壕 (ごう)に 首都 機能を うつす 「松代大本営」の 建設などに たずさわり、終戦を むかえた。



【解説】 「良識派」 無視し 破滅へ

海軍 大将の 山本五十六や 陸軍 中将の 石原莞爾 (開戦時は 予備役)ら、対 アメリカ イギリス 開戦に 反対した 軍 幹部は おる。しかし 開戦 直後、部下を まえに 「聖戦」を まっこうから 批判したのは、平林 くらいの ものだ。


当時の にほん軍は 真珠湾 奇襲に 成功し、東南アジアでも 快進撃を つづけとった。勝利を つたえる 国策 報道の 影響も あり、国民も 前線の 兵士も、対 アメリカ イギリス 戦争の 勝利を しんじきっとった。そう した うかれた きぶんに ひやみずを あびせる ような 発言は、現在から みると 正当だけど、当時と しては 「不見識」 きわまりなく、軍の 秩序から すれば、とうてい ゆるされん 行為だった。


平林が 発言を した 背景には、もともと そりが あわず、無謀な 戦争を はじめた 東条英機 総理大臣 (当時)への 憤怒 (ふんぬ)が あったと みられるけど、それだけではない。平林は 参謀本部員 当時、アメリカを 研究する アメリカ班に 所属し、東京外国語学校 (現東京外国語大学)で 英語を まなんだ あとに 1年間、ヨーロッパ アメリカを 視察 旅行しとる。こう した 経験などから、とくに アメリカの 軍事力を 熟知して おり、かちめは ないと しっとった。平林は 陸軍士官学校 同期の 石原莞爾と したしく、戦線 拡大に 反対する 石原の かんがえに 共鳴しとった ことも ある。


しかし、平林も 石原も 東条の てで 予備役に しりぞかされ、結局は 開戦を とめる ことも、戦争を はやく おわらせる ことも できんかった。「良識派」の こえを すいあげる システムを もたん 国家は、こわだかに 進軍を さけぶ 主戦派に 誤導される まま、破滅への みちを すすんだ。




中日新聞 社会部 加古陽治|陸軍中将が開戦直後に太平洋戦争批判 部下を前に演説|2009年12月7日 09時41分



「あやまちは くりかえしません」とか いう ざんげを するじゃ なく、「だれが わるくて、なにが わるくて、かつ みこみの ない 戦争に にほんを ひきずりこんだのか」と いう ことを きちんと 分析しとかにゃ いかん。感情的に 戦争 イコール 悪と いうのじゃ なくて、現実の 軍事に めを むけるべきだ。