きょう2017年11月みっか、名古屋城東南すみやぐらをみてきた。
東南すみやぐらと天守閣
東門からおしろの区域にはいって、さいしょにみえるのが東南すみやぐらだ。これがすみやぐらかっていうようなおおきさだけど、無骨なたてもんだ。表二の門から本丸にはいって、きたがわのいりぐちにまわる。
(1) 東南すみやぐら(ひがしから)、(2) (みなみから)
(3) (にしから)、(4) (きたから)
東南すみやぐらのなかにはいる。かざりっけのないいたのまがいい。おれのへやにしたい。
いしおとしがある。軍事施設だ。
外観は二層だけど、内部は三層。3階にあがる。天井はなく、いきなりやねがみえる。
東南すみやぐらをみおわって、本丸御殿のむこうの天守閣をみにいく。
「尾張名古屋はしろでもつ」っていうことばを実感。
天守閣の内部をみおわって、こんどはきたがわにまわってみる。基礎のいしがきをふくめてさらなる威容だ。
さらにおくにはいったとこに異質なたてもんを発見。乃木倉庫か。名古屋城が名古屋鎮台(ちんだい)だった時代があって、乃木希典が在任しとったときにできた倉庫ってことで、こうよばれとるらしい。1945年5月じゅうよっかの名古屋くうしゅうのときも、本丸御殿の障壁画やなんかはここに保管しとったために焼失をまぬがれたとのこと。
展示品や説明がき
天守からみた二之丸 - 1931年さつえい - 中日新聞社提供
明治から昭和戦前期の二之丸には、陸軍の兵舎がたちならんどった。みぎしたは本丸御殿(ほんまるごてん)のやね。
(資1) 「天守からみた二の丸」
乃木倉庫 - 名古屋市教育委員会
登録有形文化財(1997年) - 乃木希典(のぎまれすけ)が名古屋鎮台に在任しとった明治初期にたてられたってつたえられ、だれいうとなく「乃木倉庫」ってよぶようになった。このたてもんはレンガづくりひらやだてで旧陸軍の弾薬庫だった。1945年5月じゅうよっかの名古屋くうしゅうのさい、天守閣や御殿などが焼失したけど、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半をとりはずしてここに保管しとったため被災をまぬがれた。のちにレンガの保全のため白亜ぬりにした。なお、被災をまぬがれた障壁画などは重要文化財に指定されとる。
(資2) 乃木倉庫 - 説明がき
特別史跡名古屋城 - 説明がき
名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府をひらいた徳川家康の第九男義直です。1609年、家康みずから築城を決定し、翌1610年にいしがき普請が着工され、1612年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内のいしがきにはめじるしとして各大名がきざんだ刻印が多数のこっております。
1615年に本丸御殿、1617年には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてほのなをとどろかせました。
明治維新后、名古屋城は陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたけど、1893年に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。1930年12月、名古屋市に下賜されると同時に国宝に指定され、翌1931年から一般公開がはじまりました。1932年には、名古屋城全域が特別史跡に指定されました。
1945年5月、第2次世界大戦末期のくうしゅうにより、天守や本丸御殿など国宝建造物24棟焼失しましたけど、焼失をまぬがれたみっつのすみやぐらとみっつの門、くうしゅうの直前にとりはずされとった本丸御殿障壁画1,047面が、戦后重要文化財に指定されました。
1959年、天守閣と正門が、ほぼむかしどおりの外観で再建されました。
2009年には本丸御殿の復元工事がはじまり、2013年に玄関と表書院部分が完成しました。現在も、2018年の全体完成をめざし工事がすすめられております。
(資3)、(資3-1) 特別史跡名古屋城
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(さんこう)