あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほどいいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、かんしんしたことなんかをかいていくよ

とよひのもり古井神社 - 古井神社の歴史第1弾

(ふるいじんじゃ)

これから改修にかかっていくわが古井神社だけど、「古井神社からのおしらせ第3号」にほの歴史がついとった。いまのばしょにむかしっから古井神社としてずーっとあったのかっておもったら、ほじゃなかったみたい。こんなふうにかいてあった。

◇            ◇

古井神社のはじまり
「とよひ」とは、かみさまのなまえ「橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)」

〔古井神社の歴史第1弾〕

  • 1949年新憲法のもと、神社本庁所属の宗教法人「古井神社」って改称し現在にいたっとる。
  • 古井には弥生時代の遺跡がおおい。農耕の集落として発展してきた古井では、ひとびとが、豊作をねがい、自然のめぐみに感謝し、やくよけ祈願など共同で祠(ほこら)をたてていのりをささげたのが神社のはじまりであったってかんがえられる。古井神社の由緒は、つぎのようにしるされとる。
    垂仁天皇(すいにんてんのう)の御世(みよ)、倭姫命(やまとひめのみこと)が巡行、遺跡に祠(ほこら)をたて桜大刀自神をまつったのが創始ってされる」
    桜本天神のことだけど、当時は憶念寺付近の桜塚にあった。鎌倉時代にはいり、古井に居住しとった駿河源広綱(するがのかみみなもとのひろつな)っていう武将が、1201年、豊日の森にあった社殿を修造し、従来からまつられとった橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)と木華開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)と源氏の守護神である八幡神(はちまんしん)を合祀(ごうし)した。以来、明治にいたるまで八幡宮(はちまんぐう)ってよばれてきた。
  • 「村社(そんしゃ)古井神社(ふるいじんじゃ)」に改称したのは1875年のことだった。愛知県知事からの改称許可は1882年1月17日だった。
    古井神社の歴史第1弾 - 「豊日の森」古井神社
    (古井神社の歴史第1弾 - 「豊日の森」古井神社)
  • 1832年古井村絵図に当時の寺社がえがかれとる。おおかたは、明治以降、古井神社境内に移転、合祀された。村絵図には、つぎの7社がよみとれる。
    熊野権現(丸下(まるか)=現在の松本)、天神宮(金蔵)、若宮社(神ノ木)、社宮神(十王堂)、八幡宮(豊日)、稲荷山(中本神)、天王宮(天皇
    1832年古井村絵図のうつし
    (1832年古井村絵図のうつし)
  • 絵図には、愛染明王(あいぜんみょうおう)のまえにとりいがえがかれとる。神社があったことがわかる。現在も参道のりょうがわにたかさ2メートルの石柱がある。よくみればとりいだったことがわかる。伊勢湾台風で横木である笠木や貫がおちたとのこと。ここでまつられとったかみはあきらかではないけど、明治新政府神仏分離令(1868年太政官布告)にしたがい古井神社に合祀されたってかんがえる。
    1877年作成の古井神社境内図
    (1877年作成の古井神社境内図)

◇            ◇

なるほど、さいしょは憶念寺のちかくにあっただ。いまのばしょにうつってからも、なまえは八幡宮だった。村社古井神社になったのは、やっと明治にはいってから。ちょっとかじょうがきにすると、こうなる。

  • 紀元前后の垂仁天皇の時代に倭姫命が古井に巡行し、遺跡にほこらをたてて桜大刀自神をまつったのが古井神社のはじまり。桜本天神のことで、当時は憶念寺付近にあった。
    (※ 垂仁天皇の在位は紀元前29年から紀元后70年までの99年間)
  • 鎌倉時代にはいった1201年、古井におった駿河源広綱っていう武将が「とよひのもり」にあった社殿を修造し、従来からまつられとった橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)と木華開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)と源氏の守護神である八幡神(はちまんしん)を合祀し。以来、明治にいたるまで八幡宮ってよばれてきた。
  • 明治にはいった1875年、「村社古井神社」と改称。

いや~、わが古井神社の歴史って紀元前后にさかのぼるふるいもんだっただ。ほいで、中世にはいっていまの「とよひのもり」に移転。源氏の守護神である八幡神もまつることになって、八幡宮ってよんどった。古井ってただの農村集落じゃなくて、源氏ともかかわりがあっただね。で、古井神社になまえをかえたのは1875年から。うん、おもしろいね。


(さんこう)