わがあんじょうのほこる芸者文化。2回にわけて紹介しとったちゅうにちのきじの、こんかいは前編を紹介する。
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はなまち今昔ものがたり - 三河の70年第9部
「ほや、いい時代だったよ」
半世紀あまり、花柳界にみをおくかすみ(72才、あんじょうし相生町にすむ)はわかいころをふりかえってわらう。あんじょう市内の芸者18人のうち、12人をかかえるおきや「かすみ寮」のおかみ。
芸者になったのは、18才のとき。1960年代はじめ、高度経済成長のまっただなかだった。ははも芸者だったから「やるならとうぜん、このしごとだっておもっとった」とのこと。
あんじょうは、全国的にしられる「農業先進地」だ。多数のひとが視察におとずれ、繊維や自動車関連の工場進出もあいつぎ、まちは活況を呈した。
ひとがつどや、はなまちもにぎわう。みんかんだけじゃなく、警察や消防、税務署のひともふくめ、料亭では連日、宴席がくりひろげられた。
「スナックなんてなかったで、二次会は芸者さんの三味線にあわせてうたったり、おどったり」だったっていう。当時のあんじょう花柳界には80人ぐらいの芸者がおったっていう。
商談はよるこそ本番。宴席で「よっしゃ」って商談がまとまるばめんをなんどもみてきた。
宴会のまえにひいききゃくが「たのむな」って芸者につげると、「あいよ」ってこたえ、はなしのながれをあとおしする。「おさけがはいって円滑にはなしがすすむ。おおらかな時代だった」っていう。
宴会以外の需要もあった。料亭での結婚式でおどり、まつりのあと、ほの地域のいえにでむいてまたおどり。ときには葬儀のばによばれることも。「おきゃくさんが芸者さんと家族のようにつきあっとった」っていう。
芸者衆が旅行にでかけるともなや、なじみきゃくが旅行用のきものをつくってくれた。「ほんなひとがいくらでもおっただで」ってなつかしむ。
元日はくろもんつきのきものをきて、料亭や芸ごとの師匠宅をまわり、新年のあいさつ。三が日は「付け花」っていうおとしだまがあった。ひいききゃくが芸者をお座敷によんだことにして、はなだいをくれた。
「みっかかんで100本、50時間ぐらいつけてもらった」とのこと。三が日だけでひとつきぶんのはなだいをかせぐつわものもおったっていう。
「ごひいきのひとはとりあいだった。じぶんのおきゃくさんにせえと、芸者さんがとっくみあいになったこともあってね」っていう。料理をはこぶ后輩のあしをすれちがいざまにわざとひっかけ、たおすのをめにしたこともある。
活気あふれる花柳界。だけど1970年代にはいると、ふゆをむかえる。
△ はなまち今昔ものがたり - ちゅうにち 2015.9.22
あとがき
芸者たちのはなやかな時代があった。戦后復興や高度経済成長を象徴し、ひとつの文化としてかげでおとこたちをささえた。三河にも各地におきやがあったけど、時代のながれや娯楽、文化の多様化とともに徐々にすたれていく。三河の70年第9部は、はなまちのいまむかしをみつめる。
三河の芸者史
現在もねづよく芸者文化がのこるのがあんじょう。6軒のおきやがあり、2002年にはぢもと経済界があんじょう芸妓文化振興会、愛称、笑美素会(えびすかい)を発足させた。
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なるほど、二次会も芸者ってのはわかるけど、結婚式やばあいによっては葬式まで芸者さんのでばんがあったとはおどろきだ。