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あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

あんじょうの偉人岩瀬和市

岩瀬和市(いわせわいち)。おれとおんなじ古井のひとだ。おれが小学校4年生のとき、っていうと1966年のことになるだけど、そろばん学校にあんじょうのえきまえまでバスでかよっとっただけど、バスんなかで「あ、おじいさん!」ってよんだのにしらんかおされただよ。おれのおじいさんも岩瀬和市とおんなじようにひげはやしとってね、ほいでまちがえちゃっただよ。ほの岩瀬和市がこんかいの広報あんじょうにあんじょうの偉人としてのっとった。

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あんじょうの偉人11岩瀬和市 - 更生病院設立のたてやくしゃ
あんじょうの偉人岩瀬和市 - 広報あんじょう 2015.12.15号
△ あんじょうの偉人岩瀬和市 - 広報あんじょう 2015.12.15号

西三河最大級の基幹病院としてしられる更生病院。病院設立のたてやくしゃ、岩瀬和市は1891年に碧海郡古井村の農家にうまれました。家庭の事情で高等小学校を退学せざるをえませんでしたけど、和市はとても勉強熱心で、愛知県立農林学校長の山崎延吉を師とあおぎおしえをうけておりました。

明治期は資本主義経済の確立の時期でした。農作物の商品化や貨幣経済の浸透により、商品の売買や資金調達などが、従来の農家には困難になっておりました。ほこで、農家が協同組織をつくり、不利な状況の打開と経済的な利益の確保を目的に、1900年、産業くみあい法が施行されました。

延吉は産業くみあいの設立を奨励しており、和市はほのすすめどおり、1914年、同志たちと古井村に産業くみあいを設立。和一は「人間は創意工夫せよ」、「ひといちばいはたらけ」っていう延吉のおしえをしんじ、産業くみあいの発展につくしました。やがて、愛知県下でも優秀な産業くみあいとして評価され、和市も指導者としてしられるようになりました。

1928年、和市は碧海郡購買販売利用くみあい連合会、通称、丸碧の理事になりました。翌年から昭和恐慌にみまわれますけど、丸碧は鶏卵の販売が好調で、出資金が過剰になるほどでした。

和市はあたらしい事業をはじめることにし、農村医療の発展のため、くみあい立の病院をつくることにしました。延吉に相談したところ、「大賛成だ、きみやりたまえ」って激励されたっていいます。

病院は1935年、郡内ゆいつの総合病院として御幸本町に完成し、延吉によって更生病院ってなづけられました。丸碧からの補助によって治療費はやすくおさえられ、更生病院の入院費はおやこどんよりやすいって絶賛されました。

更生病院の創設は、「にほんのデンマーク」っていう呼称がたんに農業の先進性を賞賛したものではなく、農村の生活向上もたたえた表現であることをものがたっております。

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なるほど、1891年うまれの岩瀬和市、1914年に古井村に産業くみあいを設立して、1928年には丸碧の理事になって、1935年に更生病院をたてたか。えらいひとだっただね。バスんなかでひとちがいをしたことをうちのひとにはなしたら、「ほやあ『わいっつぁ』だよっておしえてもらっただけどね、ほんなえらいひとだったってことは、小学生のこにはおしえてもらえんかったよ。