あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

名古屋城のやけおちについて

1945年5月じゅうよっかのアメリカ軍の空襲(くうしゅう)でやかれた名古屋城だけど、ほのときのことをかきしるした公文書がでてきたげな。ちゅうにちにのっとった。

天守閣も本丸御殿も焼失した名古屋城(1947年ごろさつえい)(ちゅうにち)
焼失まえの名古屋城と本丸御殿(1930年さつえい)(ちゅうにち)
△ うえ=焼失した名古屋城(1947ごろ)した=焼失まえの名古屋城(1930年)

名古屋城本丸の焼失状況(ちゅうにち) 名古屋空襲による名古屋城焼失をしるした資料(ちゅうにち)
△ ひだり=焼失状況(ちゅうにち)みぎ=焼失をしるした公文書(ちゅうにち)

1945年5月じゅうよっか、名古屋城焼失の経過

あさ7時38分
空襲警報発令。
あさ8時5分ごろ
アメリカ軍機数十機が数百発の焼夷弾(しょういだん)を名古屋城のうちにわと本丸御殿(ほんまるごてん)付近に投下。名古屋城管理事務所職員一同「ただちに消化にあいつとめそうろう」。たてものに延焼するのをふせいだ。
あさ8時20分ごろ
数編隊で来襲したアメリカ軍機が大天守閣と小天守閣を集中的に爆撃し、火災が発生。陸軍100人も消化にくわわったけど、焼夷弾数百発が本丸御殿と表一之門(おもていちのもん)付近におち、火勢(かせい)がつよまった。警防団30人、市役所本庁の職員数十人の応援もえて消化につとめたけど「あいつぐ編隊の来襲投弾のため火勢ますますあがり」、延焼をくいとめることはできんかった。落下した焼夷弾は2千数百発にのぼった。
正午すぎ
天守閣が鎮火。
午后1時38分ごろ
城内全体「おおむね鎮火いたしそうろう」。本丸御殿のなかにあり、とりはずしができんかった障壁画144面は焼失。空襲にそなえ、しきち内の「乃木倉庫」に疎開させとった本丸御殿のふすまえや天井いたえなどには被害がなかった。
1945.5.14 名古屋城焼失の経過(ちゅうにち)
△ 1945.5.14 名古屋城焼失の経過(ちゅうにち)

◇            ◇

江戸時代ならともかく、1945年当時の名古屋城が軍事施設であったはずもなく、この空襲は文化財の破壊としかいいようがない。バーミヤンの仏像を破壊したタリバンのことを非難できるか。アッシリアの石像を破壊するイスラム国のことを非難できるか。


(さんこう)

  • 名古屋城焼失、克明に - 「火勢増々上リ…」市と県が文書保管:一面:中日新聞(CHUNICHI Web)(社会部・市川泰之さん)|2015年6月14日朝刊 〔ねたもと〕
    • 1945年5月14日の名古屋空襲で、国宝だった名古屋城が炎上し、焼失するまでの経過を記した文書が、名古屋城と愛知県埋蔵文化財センターに残されている。「国宝建造物滅失届」と題する報告書で、焼失から1カ月後、愛知県を通じ国に提出されていた。資料からは、名古屋城の職員のほか陸軍も加わった懸命な消火活動にもかかわらず、度重なる米軍の来襲によって城が焼け落ち、出火から鎮火までに5時間以上かかっていたことが克明に記されている。
    • 名古屋城は、1930年に城郭として国宝第1号に単独で指定され、名古屋市が管理。滅失届は、炎上当時の佐藤正俊市長名で文案が作られ、愛知県を経由し、1945年6月27日付で文部大臣に提出された。
    • 当時の文案を市が、ほぼ同じ内容の文書を愛知県埋蔵文化財センターが保管。午前8時20分ごろ、数編隊で来襲した米軍機が大天守閣と小天守閣を爆撃し、続いて本丸御殿から出火したことなどが記されている。ただ、これらの資料は膨大な行政文書に埋もれ、長年にわたって日の目を見ることはなかった。2008年と2013年、市と県がそれぞれ文書を含む関係資料を公開したが、研究者の間でもあまり知られず、本丸内の建造物がどの段階で焼けたのか、証言や体験記に頼らざるを得ない状況だった。
    • 名古屋空襲に詳しい東海高校教諭の西形久司さん(56)は「焼失の具体的な経過は市民にほとんど知られていない。人の記憶はあいまいになりがちで、文字で書き残した資料が残されているのは貴重だ」と指摘している。
  • 愛知県下の空襲 - 第2期【名古屋市街地への焼夷弾空襲】1945年3月から1945年5月 - あきひこのいいたいほうだい|2015/03/24
    • 名古屋市街地は1945年5月じゅうよっか、17日の二度にわたる焼夷弾爆撃によりみわたすかぎりの焦土と化しました。名古屋のシンボルであり、市民からもしたわれた名古屋城天守閣がやけおちたのも、1945年5月じゅうよっかの空襲でした。