あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

別郷廃寺(べつごうはいじ)の鴟尾(しび)

まえにもこのブログで紹介したことのある別郷廃寺(べつごうはいじ)の鴟尾(しび)だけど、安城市(あんじょうし)の発表した資料からほのすごさをまあいっかいみてみる。鴟尾ってのはおおむねのりょうがわにつけられたかざりのことで、金のしゃちほこをおもいうかべるとわかりやすい。

20140525 12.05 古井町ふれあいひろば - 別郷廃寺の鴟尾(しび)
△ 別郷廃寺(べつごうはいじ)の鴟尾(しび) - 2014.5.25 さつえい

別郷廃寺出土の鴟尾について - 安城市の資料から

鴟尾とは

古代のかわらぶきの寺院や宮殿のおおむねのりょうがわにのせられた装飾のこと。のちに、しゃちほこ、おにがわらとなった。寺院のばあい、寺格がたかく、規模がおおきく、おおきな勢力をもったてらの金堂(こんどう)や講堂にもちいられた。このため、ほの分布は、格のたかい寺院や宮殿がいとなまれた畿内(きない)におおく、ほれ以外ではすくない。

東大寺大仏殿の鴟尾
1.東大寺大仏殿(金堂) 318-238
唐招提寺金堂の鴟尾と各部名称
2.唐招提寺金堂 248-186
3.鴟尾の各部名称(唐招提寺金堂) 315-294

出土した鴟尾について

2013年6月11日から2013年7月ここのかの西別所町(にしべっしょちょう)における別郷廃寺の発掘調査において、廃棄土坑(はいきどこう)(=土器やかわらをすてたあな)から、大量のかわらの破片とともに出土した。ほのあと、もと近畿大学教授、大脇潔(おおわききよし)氏、愛知県埋蔵文化財センター、永井邦仁(ながいくにひと)氏の鑑定で鴟尾と確認した。

4.別郷廃寺あとの推定範囲と調査地点 297-287

おおきさはよこ52センチ、たかさ20センチ、あつさ9センチ。破片の規模としては愛知県下7例めの発見にして、最大のもの。安城市内では、寺領町(じりょうちょう)の寺領廃寺(じりょうはいじ)についで2例めとなる。破片がおおきかったため、往時には、鴟尾のたかさが120センチていどあったと推定できる。ちなみに唐招提寺金堂の鴟尾のたかさは119センチ。

6.別郷廃寺出土鴟尾 446-261

5.別郷廃寺出土の鴟尾の復元 206-291

鑑定の結果、金堂(=本尊を安置する寺院の仏殿)の鴟尾のみぎ側面の破片で、時代は7世紀第4四半期から8世紀はじめ(675年ごろから720年ごろ:白鳳時代から奈良時代)ってかんがえれる。たてものの規模は、唐招提寺金堂とおんなじ規模ってせやあ、28メートルかける15メートルていどが想定される。表面にみえる「コンパス珠文」(=円形の文様)は、おもに美濃地方(みのちほう)でみれることから、この鴟尾の製作には、美濃の工人が関わっとったことが推定される。

7.鴟尾のたかさとててものの規模の推定 665-163

鴟尾が出土した意義

これまで別郷廃寺は、奈良時代の一地方寺院とかんがえられてきたけど、実態は未解明だった。しかし、こんかいの鴟尾のかくにんによって、そうとう規模の金堂をもち、そうおうの規模や勢力を有したてらであったことがあきらかになった。このことは、ほの背后に、ほうしたてらを建立(こんりゅう)することのできる地方豪族が存在したことを示唆するものである。ほの権力者が、美濃との関係を有しとったことも注目される。

また、鴟尾の出土は、安城市内では寺領廃寺につづいて2例めとなる(寺領廃寺の鴟尾破片はちいさく、全体の復元にはいたっとらん)。こいで矢作川(やはぎがわ)中流域右岸には、北野廃寺(岡崎市・くに指定史跡)、別郷廃寺、寺領廃寺、志貴野廃寺(西尾市)の4か寺が確認されたことになる。このようにそうとう規模の寺院が林立しとったことは、豪族もまたほいだけ存在しとったことをかんがえにゃいかん。

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なるほど、わが矢作川右岸地域には別郷廃寺もふくめて、そうとう規模のおてらが林立しとったわけだ。ちょっと歴史がかわっとったら、奈良じゃなくてこの地域が首都になっとったってこともあったのかな。


(さんこう)