あきひこのいいたいほうだい

いいたいほうだいってほど、いいたいほうだいにいえるわけじゃないけど、おりおりにかんじたこと、感心したことなんかをかいていくよ

吉野屋さんと 南吉 - 広報あんじょう

安城駅 (あんじょうえき) みなみの 繁華街に 吉野屋 (よしのや)って いう うなぎ りょうりやさんが ある。うちの 会社でも 歓送迎会に つかったり する とこだけど、じつは 戦前に 安城高等女学校の 先生を しとった 新美南吉 (にいみ なんきち)も この みせを つかっとったって いう。しかも、当時から いままで おんなじ たてもので みせ やっとるげな。ほんな 吉野屋が 広報あんじょうに のっとった。

南吉と わたし - 吉野屋 4代め 太田享秀 (おおた たかひで)さん

吉野屋 4代め 太田享秀 (おおた たかひで)さん

南吉と わたし 9 (広報あんじょう 2013.9.1)

◇ 南吉が 日記に かいた みせ

「井上は あがって きた お内儀さんに すきやきを 注文した。ここの むすこは 柔道 3段ですよ、(中略) 学生の 3段より つよいですよ、わたしも おそわりましたと いった。いま 出征して いる そうだ。肉と ねぎが きて、にながら たらふく たべた」

にほん 料理店で ある うちの みせに、新美南吉が しりあいと きた ときの ことを かいた 1節です。「ここの むすこ」とは 2代め 当主で ある 祖父、富次郎 (とみじろう)の こと。南吉 研究家から 文献を よませて もらった ははが きづきました。

かれが おとずれた みせで 当時の まま 現存するのは うちのみです。市内の 小学校の こどもたちが、授業の 一環で 見学に おとずれるんですよ。

安城の ゆたかさが あとおし

日記を よんどって きづいた ことが あります。南吉の 生活 ぶりには、戦争の 空気が あんまり かんじれん ことです。よせなべや うなぎの 記述も あり、およそ 戦時中とは おもえん 食生活です。

安城町農会館 (古書ふみくら) 安城町農会館 (古書ふみくら)

当時 安城には、明治 用水の 恩恵を うけた ゆたかな 農地が ひろがって おりました。こめに くわえ、やさいや くだもの、畜産など 農業の 多角化にも いちはやく とりくみ、学校や 病院などの 設置も すすんで おりました。

碧海郡 更生病院 (古書ふみくら) 碧海郡 更生病院 (古書ふみくら)

南吉が やって きたのは、ほんな 安城の まち ぜんたいが はなひらいた ころ。かれが ここで 教師と しても 作家と しても 充実した ときを すごしたのは、けっして 偶然では ない。安城の 土地の 気質と、物質的、文化的な ゆたかさが かれを あとおししたのだと わたしは おもうのです。

◇ がんばれる ひとが おおい まち

いま 現在の 安城を かんがえて みると、安城 たなばた まつりは 60回を かぞえて、なお おおくの ひとを あつめて おります。これって 「安城人 根性」の なせる わざですよね。むかしも いまも、安城には がんばれる ひとが おおいのです。

日記を きっかけと して みえて きた、安城と いう まちの ゆたかさと たくましさ。石川丈山 (いしかわ じょうざん)、都築弥厚 (つづき やこう)、そして 南吉と いった 偉大な 先人を そだてた 安城を、わたしは ほこりに おもって おります。

◇            ◇

うん、安城が ゆたかだったって いう 太田享秀さんの みたてに 同感だ。おれも 1966年 ごろに 安城 えきまえの そろばん 学校に かよっとっただけど、まんだ 安城町農会館や 木造 当時の 更生病院 (こうせい びょういん)とかも あって、こども ごころにも 安城の まちって はなやかだなあって おもった もんだよ。バスも 安城 えきまえから 四方 八方に でとって、ひとが みんな ここに あつまって きとったしね。戦後 21年を へて この 状態だった わけで、戦前 安城が にほんの デンマークって いわれて、全国から 農業の 視察者が あつまって きとった 時代は、まっと にぎやかだったじゃ ないかって 推測するよ。安城町農業図書館って いう りっぱな たてもんも 戦前は あったしね。

まあ、時代は ぐ~っと くだって 2013年。すっかり 戦前の おもかげも ない いまの 安城だけど、ほんな なかで 当時の 記憶を いまに つたえるのが 吉野屋って わけだ。あと 当時から いまも つづく ものと して、芸者 文化が ある。吉野屋さんで 芸者さん よんで 南吉の 当時を しのぶってのも いいじゃ ないかな(^_^)

anzyou_mika2 安城の 芸者さん

(さんこう)