きょうは おじさんの 3回忌 法要が あっただけど、お経の あと おてらさんから 聖徳太子 (しょうとくたいし)の はなしが あった。おとうさんと おかあさんが 異母 兄弟だったなんて いう おもしろい はなしも あり、興味を ひかれたで ちょこっと しらべて みた。
聖徳太子に ついて
聖徳太子の 経歴
- 敏達天皇 (びたつてんのう) 3年 (西暦 574年)に うまれ、推古天皇 (すいこてんのう) 30年 (西暦 622年) 2月 22日に なくなる。
- ちちは 用明天皇 (ようめいてんのう)、ははは 穴穂部間人皇女 (あなほべの はしひとの ひめみこ)で、ふたりは ともに 欽明天皇 (きんめいてんのう)を ちちと する 異母 兄弟で ある。また、ふたりは ともに 蘇我稲目 (そがの いなめ)の むすめで あり、当時の 蘇我氏と 天皇家の むすびつきの ふかさが わかる。
聖徳太子の 系図 (飛鳥三昧) - 20才に して じぶんの おばさんに あたる 推古天皇の 摂政 (せっしょう)と なり、以降 48才で 病没するまで 政治の 中枢で かつやく。推古天皇は にほん はつの 女帝。
聖徳太子の 事績
- 四天王寺の 建立
- 遣隋使 (けんずいし)の はけん
- 17条憲法 (じゅうしちじょう けんぽう)の 制定
- 604年に 制定された もので、にほんで はじめての 成文法 (せいぶんほう)。
- 「以和為貴 (和を もって とうとしと なす)」の 条で しられる。
- 冠位12階の 制定
- 604年に 制定された もので、にほんで はじめての 官位 制度。
- 氏族の 貴賎に しばられん 人材 登用と、外交 使節の 威儀を ととのえる ことを 目的と した。
- 法隆寺の 建立
- 三経義疏 (さんぎょうぎしょ)の 著作
◇ ◇
いや~、聖徳太子って すごいね~。わがくにの 根本的な 制度を つくったり、先進国への はけん 外交を 積極的に やったり、ひとびとの めを おどろかせる 壮大な おてらを たてたり、仏教を ひろめる ために 経典の 注釈書を かいたり しただ。
歴史って いうと、源平とか 戦国、幕末、明治って いう 時代が われわれに みぢかな とこだけど、こんかいの おべんきょうで 聖徳太子の 時代の ことが ちょっと みぢかに かんじれる ように なったよ。
ほれと、西暦 600年 前後って いう ふるい 時代に こんな すごい ひとが おった、って ことが、にほんじんと して ほこらしい。
(さんこう)
- 2013.3.30 12:24 「旬彩会席 田和」の 料理
- (きょうの 法事の あとは 田和 (たわ)で 食事を した)
- 世界で いちばん ふるい 会社は にほんの 会社 ~金剛組~ - あきひこの いいたいほうだい|2013-03-09
- 第249回活動記録 聖徳太子は実在した|邪馬台国の会ホームページ
- 失敗を くりかえして きた 19世紀的 文献 批判学に たいして、海外では、すでに おおくの 再批判が おこなわれ、たとえば、『数理哲学の歴史』の 著者の G.マルチンは、「自分 自身に たいして 無批判な 批判」と するどく 論評しとる。しかし、にほんでは、いまも なお、津田左右吉流の 擬古派的な 主張を する 学者が すくなく ない。
- 擬古派的な かんがえかたは、くりかえし、事実に よって 粉砕されて きたが、にほんでは、第2次世界大戦中の 『古事記』『日本書紀』を ほのまま しんずべしと する 教育に たいする 反動から、擬古的な かんがえが いまだに つよく、結果的に 世界の 趨勢 (すうせい)から いちじるしく たちおくれた 議論が、あいかわらず 強調される 傾向が つづいとる。
- 太子道(筋違道)資料
- 聖徳太子 - Wikipedia
- 和宗総本山 四天王寺 - 日本仏法最初の官寺
- 法隆寺略縁起