2020年6月ふつか放送の歴史秘話ヒストリアは「富山のくすりうり」。
「顧客のいえいえにくすりをおかせてもらい、定期的にたずねてはつかったぶんだけ代金をうけとる『富山のくすりうり』。江戸時代、富山藩のひとびとがはじめた独創的なビジネスだ。もともと富山は、自然や立地などが『製薬』にむいた土地。しかし『富山のくすりうり』が現在もつづく商売となりえたいちばんの理由は『あきないへの情熱』! 知恵とまごころをつくし、顧客のためならにほんぢゅうをかけまわるというあついおもいで、ついには時代をもいごかした、くすりうりたちの感動秘話」。
ばんぐみの進行は、きものすがたもあでやかな渡辺佐和子さん。
なぜ富山にくすり?
=富山のくすりは「おとのさまの趣味」から!?
江戸時代、おおゆき、ゆきどけによる洪水、火災の多発などになやまされてきた富山藩。とのさまである前田正甫(まえだまさとし)は藩繁栄のために、収集しとった反魂丹(はんごんたん)などの「くすり」を全国へうりだそうとします。富山の地をくるしめたゆきどけみずもくすりづくりには好条件。ピンチをチャンスにかえる富山の挑戦がはじまりました。
△ 江戸城腹痛事件
△ 販路拡大
サービスとまごころのくすりうり
=『富山のくすりうり』は江戸時代の富山のひとびとのくふうでたんじょうした
いざ商売にでた富山のくすりうりたちですが、当時高級品だったくすりはなかなかうれず。そこでしぼった知恵が『先用后利(せんようこうり)』。まずくすりをおきゃくさんのいえにおかせてもらいつかったぶんだけあとばらいでいただく。いまもつづく『富山のくすりうり』商法です。それにきめこまかな顧客サービスもプラス。販路はにほんぢゅうへ!
△ サービス!サービス!
臨池居跡(りんちきょあと)
江戸時代中期から明治時代にかけての富山県内における代表的寺子屋。越中国の私塾としてはもっともふるく、小西塾ともよばれた。1766年、小西鳴鶴(こにしめいかく)によって創設され、1899年までこの地に存続した。
1830年から1843年までの天保年間ごろから当初の漢学塾から寺子屋へと性格をかえ、ほの授業内容は往来物(おうらいもの)、習字、そろばんのほか、売薬業の発展にともない薬名帳をくわえるなどの独自性をもち、独特の書風もうまれた。
1870年当時の記録によれば、塾生は男子600人、女子200人をかぞえ、寄宿舎には、近郷から300人が寄宿しとった。たてもんは2階だてで、中央の廊下をさかいに教室と師匠の居宅にわかれ、階上は女子用60畳じき、階下は男子用100畳じきの教室であった。
富山市
歴史をいごかした先用后利
ときは幕末。九州・薩摩が担当区域のくすりうりたちは、薩摩藩から営業権のかわりに幕府のめをぬすんでの「昆布」輸送を依頼されます。富山のくすりうりたちはこの危険な注文を、とおい薩摩でくすりをまつ顧客のため決意、実施します。ほれらの昆布は交易で薩摩藩に巨利をもたらし、倒幕維新の原動力となったのです。
志学館大学教授原口泉さん(にほん近世史、近代史)
「にほん最強の藩によみがえったといっても過言ではありませんよね」